法 話

私たちの中の「主人公」

岡山県 ・報恩寺住職  蘆田太玄

 「主人公」という言葉は聞きなじみのある言葉ですが元々は禅の世界の言葉です。そして、禅の世界で用いられる時の「主人公」の意味合いは、私たちが普段用いる「主役・主要な登場人物」といった意味とは少し異なります。この主人公という言葉が登場する『無門関』第十二則には次のようにあります。

瑞巌彦(ずいがんげん)和尚、每日自ら「主人公」と喚び、復た自ら應諾す。乃(すなわ)ち云く、「惺惺著(せいせいじゃく)、諾(だく)。他時異日、人の瞞を受くる莫かれ。諾諾。」と。

 中国の瑞巌寺というお寺に住していた師彦和尚が、時々自分自身に向けて「主人公よ」と自問自答していたという話です。惺惺著は「目覚めていなさい」、諾は「はい」、人の瞞を受くる莫かれとは「だまされるでないぞ」という意味です。師彦和尚は、自分自身の内面に存在する主人公に向かって、何度も何度も自問自答をくり返します。この意味を考えていくことに、禅の世界での「主人公」という言葉の価値があります。
 このお話の中には、
  ①主人公、と呼びかける自分
  ②はい、と呼びかけに応える自分
が存在します。龍源寺(東京)の住職であった布教師の松原泰道師は、①を日常的自我、②を本質的(本来的)自我と呼ばれました。いわゆる、普段私たちが自覚している①に対して、光と影のような関係で表裏一体、共に人生を歩んでいる相方が②であるという関係です。この二人の話し合いが多いほどその人柄は豊かになると松原師は言及しています。どちらかが主人公でどちらかが主人公でないという話でもなく、この二人が調和し、あたかも一人であるような状態を理想として、絶えず自問自答をくり返していくことが大切だということです。

ren_2011b_link.jpg 『花園大学教堂の祈り』には、「個人の幸福が人類の福祉と調和する道を歩まんことを」とあります。前述の①の幸せを追求することが個人の幸福、②の幸せを追求することが人類の福祉と解釈すればわかりやすいかと思います。個人の幸福とは自分「だけ」が幸福でも成り立ちます。
 例えば、おいしいケーキが10個あったとして、それらをすべて自分で平らげてしまっても、個人の幸福であることには間違いありません。しかしここで少し目線を広げて、そのおいしいケーキを誰かと一緒に食べることを想像してみましょう。独り占めすることをやめて、このケーキおいしいね、とみんなで幸せを分かち合い、みんなが笑顔になる。誰かがおいしそうにケーキを頬張る姿を見て自分も笑顔になる。一人の幸せと九人の不幸せだったものが十人の幸せになりました。こうすることで人類の福祉へと近づいていきます。
 何がポイントであったかを振り返ると、「与えることが幸せ」、「人の笑顔を見ることが幸せ」というように価値観を転換し、自分の欲望第一主義から離れた事であったと思います。これを可能にするのが①と②の対話であるということです。
 もちろんこれはごくごく単純に構図化したものですから、現実にはそう簡単には行かないでしょう。誰しも自分のことが一番かわいいものです。しかし、知らず知らずのうちに10個のケーキを独占することが当たり前になっている現状に私たち一人ひとりが「気付き」、反省すること、これこそ自分自身との対話を深めていく第一歩ではないかとも思うのです。

 岡山県出身のシンガーソングライター、藤井風さんの『帰ろう』という曲の歌詞に次のようにあります。

  ください ください ばっかで
  何も あげられなかったね
  生きてきた意味なんか分からないまま
  ああ 全て与えて帰ろう
  ああ 何も持たずに帰ろう
  与えられるものこそ 与えられたもの
  ありがとう、って胸をはろう

 「ください、ください」とあれこれ求めていた自分自身を反省し、「ありがとう」と胸をはることができた自分というのは何事にも代えがたい価値がある。作者の意図は作者にしかわかりませんが、「主人公」という言葉の意味を考えている時に聞いてみると、このようなとても力強いメッセージに感じられました。きっかけは人それぞれであると思います。どんな些細なことであっても私たち一人ひとりの感じるきっかけを大切にして、自分自身との対話を大切にして参りましょう。