法 話

鈴木大拙の世界シリーズ〔11〕
「見性について」
書き下ろし

東京都 ・宝泉寺住職  藤本大器

 ren_2212a_link.jpg「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」とは禅の最も重要なファクターで、達磨図の掛け軸などにもよく添えられている有名な言葉です。「直に心の内を見て仏に成る」、自らの心の内(性)をしっかりと見てとることで仏と成れ、生きている今こそ仏たれ、ということで、これが禅の最も大事な「お悟り」の中身なのです。

 禅の天才、六祖慧能禅師は、見性を極めることを第一の命題としています。また日本臨済宗中興の祖、白隠禅師は、日常生活の中でこそ見性することの必要を強く説かれました。不肖私も、法務作務に振り回されながら、自らの心の内を明らかにせんと、あるべき仏の姿を追い求めている毎日であります。

 近代禅の研究者で自身も居士として修行生活を送った鈴木大拙博士は、この「見性」についてこう記しておられます。

という個があってそれが寂然不動の体で、その個なる体が、誰かによりてられると考えるとき、悟りはなくなる。(中略)寂然不動のがそのままで見のである。見るもの、働くものが、そのまま在るもので、又在ることが見ること働くことなのである。禅はこれを体得するとき成立する」

(『鈴木大拙全集』 一巻より)

 悟りの実体ともいえる「見性」とは、実は我々が「在る」ことそのものである、と私は解釈しています。日常のすべての体、心の動くことが悟りの姿で、その働きを行うものは誰か、それは「私」以外いない、ということです。あとはどう自分の心の有り様を見極めていくか。それもまた自分にしかできないのです。

 本堂裏の古い「垂れ桜」はお寺の名物の一つで、可愛らしい薄紅の花は長いこと檀家さんの楽しみの一つでありました。私がこの寺に生まれる前から、変わらずに毎春満開の花をつけていたのですが、10年ほど前からだんだんと勢いがなくなり、やがて幹はコブだらけ、苔も張り付いて、花は一枝に二、三輪となってしまいました。
 この夏ついに一枚の葉もつかなくなり、倒木の危険があることから伐採することになりました。クレーンを使って倒されてゆく姿を見て不意にこみあげてくるものがあり、思わず涙がこぼれました。当たり前にそこにあった姿をもう見られなくなるのだという悲しみと、最後の最後まで力を尽くし、ぼろぼろになるまで出し切ったその姿に感動したのです。枝は中身がスカスカで、太い幹も持ち上げただけで崩れてしまいました。それほどまでに生ききって、そして黙って静かに切り倒される姿に、何か大事なものを教えられたような気がしたのです。

 この老桜は、今の今まで、美しく咲こうとか、老いて残念だとか、ましてや悟ろうなどとは考えず、花を咲かせ、葉を散らし、切り倒される今日まで、ただ在ること、そのことだけに力を尽くしてきたのです。だからこそ、美しく尊いものとして私を感動させたのではないでしょうか。反対に私は「こうありたい」「こうあるべきだ」とずっと望んできました。理想を求め、周りを見渡して、結局何も見つけられずにいたのです。そしてそんな自分を不甲斐なく愚かな存在と、苦しんできました。
 しかし本当は、この桜のように、ただ自分自身でありさえすればよかったのです。「直指人心見性成仏」とは、理想の自分になろうとすることや、神秘的な悟りの世界を求めることではないのですね。それは無駄なよそ見に他ならなかったのです。今日只今、自分の働きを存分に尽くし、ただそこに在ること、それこそが成るべき仏の姿だと、心の底から知る、体得することなのです。境内にとり残された切り株に触れるとき、あらためて大拙博士の言葉の意味を、身に染みて考えさせられました。

 心の底から知ること、これがムズカシイのですね。わかっていても世の中にあふれる「良さそうなもの」に吸い寄せられて、また自分を見失うこともありそうです。そんなときは桜の老木を思い出して、自分自身を戒めていくことにします。そしてまた次の毎日を一所懸命に過ごしてゆきたいと思います。