法 話

時はいのち
書き下ろし

神奈川県 ・正福寺住職  松原行樹

 ren_2301a_link.jpg早いもので、令和も5年目を迎えることとなりました。新しい年を迎えるにあたって、目標を定めた方も多いのではないでしょうか。
 私の昨年の目標は、「たくさん勉強をすること」でした。若干曖昧に設定したのは、一昨年、「月に5冊の読書」という明確な目標を掲げながらも、わずか1ヶ月にして達成できなかったからです。
 しかし、結果は一昨年以上にひどいものでした。「忙しい」「疲れた」と言い訳をしながら、勉強するときは、法話の担当や課題提出の直前というありさま。その上、昨年末に今年の目標を設定しようとしたとき、目標を定めたことさえも忘れている自分がいました。
 年のはじめに計画したことや、心に誓ったことなどが実現できていなかったり、中途半端で終わったりすると、悔いが残ってやり切れません。私自身言い訳をしながら、その目標の存在すら忘れていたことを大いに恥じました。

 『仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)』という経典に、「黒白二鼠」というお話があります。

ひとりの男が罪を犯して逃げた。追手が迫ってきたので、彼は絶体絶命になって、ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓が下がっている。彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇が口を開けて待っているのが見える。しかたなくその藤蔓を命の綱にして、宙にぶら下がっている。やがて、手が抜けそうに痛んでくる。そのうえ白黒二匹の鼠が現われて、その藤蔓をかじり始める。
 藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。すると、男は自分の危い立場を忘れて、うっとりとなるのである。
 この比喩で、「ひとり」は、ひとり生まれてひとり死ぬ孤独の姿であり、「追手」や「毒蛇」は、この欲のもとになるおのれの身体のことであり、「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、「白黒二匹の鼠」とは、歳月を示し、「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。

(『仏教聖典』より)

 なんとも恐ろしい光景です。歳月は無情にも過ぎ行くということ、そして絶体絶命の中でも、甘い蜜の落ちてくるのを待ち望んで、恐怖を忘れてしまう人間の愚かさや欲望の根深さを説いたものでしょう。しかし、このことは欲望に引きずられ、振り回されている自分自身と置き換えて考えなければなりません。
 白黒二匹の鼠が古井戸の藤蔓をかじるように、歳月は刻一刻と過ぎていき、いつその藤蔓が切れてしまうかわからないのです。
 歳月が過ぎていくということは、自ずと年を取るということであり、また私たち自身が刻々と老いつつある、死につつある存在だということです。それは私たちの人生には、「いつ、どこで、何が起こってもおかしくはない」ということです。後戻りなどできませんし、今日という日も二度とやって来ないのです。
 そう考えますと、"いま・ここ"の時間を大切にしようという気持ちがわいてくるでしょう。

 「時は金なり」と言いますが、「時はいのち」と置き換えてみてはいかがでしょうか。この1分1秒がいのち、この1時間がいのち、この1日がいのちだと考えたら、大切にしようと思いませんか? そんな輝いている時間を、私は無駄にし続けていたのでした。
 何もしない日があってもいいでしょう。目標を消化できない日があってもいいでしょう。しかし、二度とやって来ないこの時間を大切にするということを心にかけて、毎日を明るく楽しく有意義に過ごしてまいりたいものです。その結果、目標が達成できたらすばらしいことです。
 欲望をすべて捨て切ることはできませんが、欲望に振り回されることなく、時間を大切にすること、この1年心がけてまいりたいと思います。