法 話

鈴木大拙の世界シリーズ〔12〕
「美穂子さん、静かになさい」
書き下ろし

京都府 ・大慈院住職  戸田義晃

 ren_2302a_link.jpg鈴木大拙博士(1870年〈明治3年〉~1966年〈昭和41年〉)は禅を欧米に広めた偉大な仏教学者です。博士の最晩年の15年間を秘書として支えられたのがアメリカ生まれ日系2世の岡村美穂子さん(昭和10年生まれ)です。87歳になられる今もお元気で知的な女性です。学生時代、大谷大学で鈴木大拙の講演会に行った老僧が言うには、「みんな鈴木大拙の話を聞いてるんだけど、岡村さんが動かれると聴衆の目は彼女の方に向いたもんだ」と。若い頃からチャーミングな女性だったのですね。

 カリフォルニア生まれの美穂子さんは太平洋戦争中、日本人強制収容所に収容され、終戦前に出されたそうです。その間ローンが払えず家も取られてしまい引っ越したニューヨークで新聞を見て、広島に原子爆弾が落とされたと知りました。美穂子さんのご両親は広島出身なのです。でもAtomic Bomb(原子爆弾)とは何のことなのか? さっぱりわからなかったそうです。
 性格の合わない両親が毎日ケンカをしている家にいると、だんだん世の中が厭になり、「生きていても仕方ない、もう自分は死んでしまおう、いつ死んでもいい」と思い詰めていたとき、「鈴木博士という偉い先生が公開講座をするから行ってみたら」と聞いて、「偉いって何が偉いのよ!」と思いつつ美穂子さんは行ってみました。ギリシャ神殿のようなコロンビア大学図書館の2階、鈴木大拙はスッスッと歩いてきて、黙ったまま演台で風呂敷を開き始めます。本を取り出すと、ゆっくり風呂敷を丁寧に折りたたみました。袋とじに折ってある和綴じの本の紙の間に指をさし入れて1枚1枚ゆっくり頁をめくっています。外はニューヨークの都市のざわめき。聴衆は黙って、鈴木博士の動きに釘付けになりました。
「今日は時間も空間も越えた話をしにきました。2600年前ブッダの話です」

 次の日、学校にも行かず、美穂子さんは鈴木博士の部屋のブザーを押しました。アポも取っていませんが、この人なら私の話を聞いてもらえると思ったからです。耳が遠い博士は耳の横に手をあてて、「ん、ん、そうか、そうか。」と一方的に話す美穂子さんの話をずっと聞いてくれました。
 話のあと、頭の上で手をひらひらさせて、「誰が動かしているんだ?」と問い、拳で机をドンと叩いて、「聞こえたか? 誰が聞いた? 私が聞いた? そんなケチなもんじゃない」「(私のことをケチですって)じゃあ誰が聞いたんですか!」「全宇宙が聞いたんだ」と博士は答えたそうです。

 「至道無難禅師の言葉に『生きながら 死人となりて なりはてて』という歌があるんだ。下の句は『思いのままに するわざぞよき』というんだ」と教えてくれた博士は、自分は死んでしまいたいと思っている「自分」なんてちっぽけなもんだぞと、言いたかったのかもしれません。
 このとき岡村美穂子さんは15歳、鈴木大拙は80歳。「電話がかかってきたら私が取ったほうが便利っていうくらいのもの」とおっしゃるのですが、博士が95歳で亡くなられるまでの最晩年の15年間、美穂子さんは秘書をされます。美穂子さんが賑やかにしゃべっていると博士は「美穂子さん静かになさい」と言われたそうですが、傍にいると鈴木大拙の心は「岩のように静か」だったそうです。
 鈴木大拙は日本的霊性について書いています。心がザワザワ喜怒哀楽で揺れるまえの、静かな心が日本のスピリチュアルです。スピリチュアルというと、本当の自分、潜在能力の開発、宇宙との一体、神との合一、悟ると世界が変わる、自分が変わるなど、ミラクルなことを思い浮かべるかもしれませんが、日本の伝統的なスピリチュアルとは、静かな心。

 人間が求めるのは心の安らぎ。禅は心の「自由・安らぎ・自立」とおっしゃる美穂子さん。「猫みたいなものかしらね、家から出かけてゆくときもスッと出て行くでしょ、右脚からとか左脚からとかあれこれ悩まず、スッとが大事なんですよ」