法 話

鈴木大拙の世界シリーズ〔13〕
「そのままに生きる」とは?
書き下ろし

岡山県 ・報恩寺住職  蘆田太玄

 ren_2303a_link.jpgそう機会は多くないかと思いますが、自分自身のやっていることについて、「このままで良いのだろうか?」と不安になってしまう状況というのは誰もが経験することだと思います。
 「そのままで良いんだよ。」という言葉はそういった考えすぎてしまうことで余計に不安を抱えてしまう人に対して一度思考をリセットし、安心感を与えてくれる素晴らしい言葉で、自分自身のやっていることが間違いではないという自信を与えてくれる言葉でもあります。

 「そのまま」とは漢字で書くなら「其の儘」です。「儘」には成り行きに任せること、という意味があります。成り行きに身を任せると言うと向上を求めず現状維持、という悪い意味でとらえられることもありそうですが、仏教の教えで「そのままである」ということには特別な意味があります。
 其の儘の反対は「我が儘」ではないかと思います。自分勝手な我心我欲にお任せするのではなくあえて、今、ここのあるがままにお任せするという選択をするのです。これが仏教の説く「自由自在」という大切な教えです。

 明治から昭和期にかけて活躍した仏教学者の鈴木大拙の言葉に次のようなものがあります。

人間以外のものは、いずれも、「そのまま」で存立し、「そのまま」に生きて行く。松は松なりに竹は竹なりに生きて行く。(中略)ただ人間になると、「そのまま」のところに二の足をふむようになった。「これでよいのか、な」と、一歩退いて考え込むようになった。

(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)

 ここで鈴木大拙が言っている「そのまま」とは例えば『白隠禅師坐禅和讃』で冒頭に述べられる「衆生本来仏なり」と同義であると考えて良いと思います。衆生本来仏なりと言われても私たちがそれを素直に受け入れるのが難しいのと同じように「きみはそのままで良いんだよ。」と言われてもやはりそれを素直に受け入れる事はなかなか簡単ではありません。これは何故でしょうか。
 「そのまま」であることをためらう理由の一つには他者と比較、区別することがあります。本来、自分がそのままで良いと思えばそのままで良いはずなのです。それなのに、そこに他と比べてああだ、こうだという余計な考えが生まれるから私たちはそのままであることに二の足を踏んでしまうのです。

哲学くさくなるかも知れないが、人間は根本的な"そのまま"を忘れ、働かしてはならぬところに分別知を働かして、ありもせぬ苦しみをこしらえて、その中に自分を投げこんだ。

(鈴木大拙『禅のつれづれ』より)

と、鈴木大拙は続けます。あれこれ気を回したり、考えたりすること(=分別知を働かせること)を「しなくても良い」と言っている訳ではなく、考えなくても良い所に気を回してしまうから余計に苦しくなってしまうのだ、ということです。

 例えばお墓参りにはいわゆる作法と呼ばれるものが存在します。テレビなどでもお彼岸やお盆の時期になると盛んに墓参の作法が紹介され、私たちはどこかでそれを常識として受け入れている所があります。墓参の時に一番大切なのは目の前のご先祖さまや仏さまを想って心静かに拝むことのはずなのに、いざ墓参の時になると私たちが勝手に思い込んでいる「常識」に縛られ、人の目が気になってそわそわしてしまう。作法を正しく遂行することが気になりすぎて拝む心がおろそかになってしまえばそれこそ本末転倒です。

 そのままであるというのは外部からの情報を鵜呑みにすることではありません。自分自身の「信心」にそのままであるということです。信心を持っているからこそ正しい作法を知りたいと思うし、墓前の方を思って手を合わせた時に心が落ち着くのではないでしょうか。
 信じる心に対してそのままである時には、自分が良ければそれで良いというわがままな心が自然と消え去っています。自分のことしか考えられない。不安だ。カリカリしている。そんな時に心静かにご先祖さまや仏さまに手を合わせる余裕はありません。あれこれ考えるのをやめて、あえて「そのまま」の生き方に飛び込んでみるという選択肢も忘れないように日々を精進して参りたいと思います。