法 話

選択肢を無くしてみませんか
書き下ろし

福岡県 ・道林寺住職  貝野孔隆

 ren_2304a_link.jpg春は出会いと別れの季節であります。卒業・進学・就職・転勤様々な要因により一年で一番多くの出会いと別れが訪れます。その出会いと別れには、辛い別れもあれば、独立開業のような嬉しい別れもありますし、嬉しい出会いもあれば、辛い出会いもあります。

 私たちは嬉しい時や良い時は心身共に充実し、何不自由なく楽しい日々を送っていきます。しかし辛い時や悪い時は心身共に疲弊し、何をするにも辛く苦しい日々が待っています。
 この「嬉しい」や「辛い」には主語があり、「私が」嬉しい、「私が」辛いのです。そしてその「私」は十人十色で、例えば絶叫マシンに乗って楽しかったと言う人も居れば、二度と乗りたくないと言う人も居るように、同じ状況に在っても嬉しいと思う人も居れば、辛いと思う人も居るのです。
 同じ状況で正反対の意見が出るということは、絶叫マシンその物には良いも無ければ悪いも無い、楽しいも無ければ苦しいも無いのです。楽しいと思うも苦痛に思うも「私」次第なのです。それは絶叫マシンに限らず、私たちの周りの環境全てにおいて、その物・そのことには良いも無ければ悪いも無い、楽しいも無ければ苦しいも無いのです。

至道無難 唯嫌揀択(しいどうぶなんゆいけんけんじゃく)

 この語は三祖僧璨(そうさん)禅師の著書『信心銘』の冒頭に出てくる二句であります。
(仏祖の大道は決して難しいものではない。ただモノを対立的にみてそのいずれかを択び、それに執着する心を起こしてはならぬ)『禅林句集』

 「至道」は何も仏道だけを言うのではなく、茶の道もあれば剣の道もあります。茶道や剣道のように道が付かなくても料理や家事・育児、キャンプ等の趣味やスポーツ・仕事、我々の日常生活のどれをとっても至道ならざるモノはありません。その道に至るのは難しいことでは無いのですが、なかなか至ることができないのはやはり揀択、「好き」や「嫌い」など対象を二元対立させ選んでしまうからであります。

 道に至るためには揀択を嫌う。他と比較したり「好き」「嫌い」や「損」や「得」といった選択をしない。人生には様々な出来事が起こりますが、その出来事を二元対立させどちらかを選ぶのではなく、心を一つに保ちその出来事に成りきっていく、そうすればそこに新たな道が開けてくるでしょう。