東京都 ・宝泉寺住職 藤本大器 |
プロフェッショナルと言われる人の中にあって、更に天才と称されるような活躍をする人がいます。芭蕉や、夏目、太宰などの文豪たち。信長ら戦国武将。最近では野球のイチロー選手や、将棋の藤井聡太七段。日本中の誰もがその活躍を知るような方たちです。禅の世界にもそう言った圧倒的な行跡を残す宗教的天才たちがいました。幼いながら清浄なる心を喝破して師をうならせた達磨大師。米つき小僧の時に悟りの境涯を明らかにした六祖慧能。風狂と言われながら生きることの素晴らしさを示した一休。近代においては、明治時代、卓越した行動力で禅の真髄を体現された釋宗演禅師もまた、その一人です。 此ノ土ノ僧ハ(中略)吾門ノ所謂無中ニ道アリ塵埃ヲ出ヅルガ如キ活境界ハ夢ニダモ知ラズ(中略)法戦場中ニ試ミントスルガ如キ気概ハ毛頭モ胸間ニ浮カビ来ラズ (『西遊日記』) (戒律や経典を奉じて安閑としているのみで、せっかくの仏法を生き生きと行じないで、いったいなんの意味があるのか) 夏目漱石の代表作『門』のなかに実は宗演禅師が登場しています。実際に漱石は明治27年頃に円覚寺派管長となった宗演禅師に参禅していて、その体験に基づいて書かれたものだそうです。作中主人公宗助は、参禅の後、山を下りるときにこう述べています。 (心の)門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲(たた)いてもついに顔さえ出してくれなかった。ただ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞こえただけであった。 ふらふらと定まらない自分の心の弱いところをグサリと刺されて、かえって宗助は生きる力を得ていくのです。一人で開けて入れ。なんと厳しく、温かい言葉でしょう。自らの足で入って歩んでこそ、意味のある人生になるということでしょう。 |