法 話

三法印 ~仏様の心で生きる~
書き下ろし

静岡県 ・中川寺住職  巨島善道

 「本日は、皆様方のご尊顔を拝することができまして、誠に有難い極みであります!」
 平成三十年二月に遷化された(お亡くなりになった)、前方広寺派管長・大井際断老大師。その老大師が、ご挨拶の場で口癖のように仰ったのが、冒頭の言葉です。
 私は、老大師のご挨拶を度々拝聴する機会に恵まれておりましたが、この「ご尊顔を拝し」「誠に有難い極み」という言葉は、いささか大げさではないか、と思っておりました。しかし、老大師が遷化され、今更ながらこれは仏教の「三法印」という教えが凝縮された言葉であったのではないか、と思うのです。
 三法印とは、「あらゆる現象は変化してやまない(諸行無常)、いかなる存在も不変の本質を有しない(諸法無我)、迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである(涅槃寂静)の三つをいう」と『岩波仏教辞典』には解説されています。すなわち、すべてのものは様々な因縁によって成り立ち、変化し続けるという本質をもっている、それを悟って執著を離れるならば、迷いのない安らかな心=仏心に目覚めていくのだ、と言えるでしょう。では、この三法印をもとに、前述の際断老師の言葉を味わってみましょう。

ren_2002b_link.jpg まず、私達一人一人が今ここにあるということは、この世に生を享(う)けたからであります。この世に生を享けるということは、様々な因縁があったからです。一番わかりやすいところでは父母との縁があり、またその先の祖父母やご先祖様方との縁がなくては、私達がこの世に生を享けるという事はあり得ません。
 また、自分が今日まで食べてきた作物をはじめとした、衣食住に関わる仕事をしている、顔も名前もわからないたくさんの方達とのご縁がそこにはあるでしょう。私たちが今ここに生きているということは、この瞬間もたくさんの方々に支えていただいているということです。まさに自分というものは、「諸法無我」という真理の上に成り立っているのです。
 また、古来より「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」と言われる通り、私たちの心も体も刻々と変化し続けております。昨日の夜は元気だったけれど、朝起きたら高熱が出ていた、などという経験は誰もがお持ちだと思います。振り返ってみますと、際断老師はお亡くなりになる三日前には、元気にご法話をされていました。私もそのご法話を拝聴しておりましたが、いつものように張りのある元気なお声でお話をされていました。百三歳というご高齢ではありましたが、まさかその三日後に忽然として遷化されるとは、夢にも思いませんでした。病院から方広寺の行在所(あんざいしょ)へお帰りになったそのお顔は、とても安らかな、まさに「ご尊顔」でありました。そのお顔を拝し「諸行無常」という言葉、頭ではわかっているつもりでしたが、やはりしっかりと自分のものにはなっていなかった、と痛感させられた次第です。

 老大師はこの「諸行無常」「諸法無我」をありのままに受け止めておられたからこそ、「今日ここに、こうして顔を合わせることができた尊さ」を心の底から「有難い」と感じておられたのでしょう。だからこそ「本日は、皆様方のご尊顔を拝することができまして、誠に有難い極みであります!」といつも仰せになったのだと思うのです。そのお言葉を発せられる老大師のお顔は、いつも微笑みをたたえておられ、まさに仏様のようなお顔でありました。
 私達人間は、「ああ、有難いな」とか「有難う」と心の底から思うとき、穏やかで安らかな微笑みを浮かべます。まさに涅槃寂静の世界、すなわち仏心が露わになるのです。諸行無常、諸法無我の真理の中で、今日ここにこうして生きている。そしてお互いがお互いに巡り合うことができた。これ以上尊いことはない、と感謝の気持ちがおのずから湧いてくる。こうした心で生きることが、仏様の心で生きることに他ならないのです。