法 話

四十二章経の教えシリーズ〔3〕
「一生は一息」
書き下ろし

千葉県 ・竺園寺住職  渡邊恭山

ren_2003a_link.jpg 令和元年6月に、千葉県松戸市と市川市の大徳寺派寺院の坐禅会有志による一泊二日の合同坐禅会に参加させていただきました。川口市の建長寺派長徳寺の寒松室老大師の提唱を拝聴し、修行道場を思わせる坐禅と作務に明け暮れる厳しいながらも楽しい坐禅会でした。今年で、51回目となり、参加していただいた会員の方々も高齢化しましたが、それでも、参加者お一人お一人に人生の奥深さを感じさせていただいた坐禅会であったように思います。

 修行道場では、「己事究明(こじきゅうめい)」「生死事大(しょうじじだい)」と掲げ、私も坐禅修行に明け暮れたはずでした。「己事究明」の「事」とは事象です。事象は因縁により生起します。つまり、己の因縁を究明することです。「生死事大」。生まれてから死ぬまでの因縁は、己の因縁の大きな要素であります。また、生まれてから死ぬまでの因縁とは、同時に己の「生老病死」苦を通しての人生の因縁であり、己とは、人生の苦をどうしていくかという経験の積み重ねによって形作られると理解しています。
 坐禅とは、己の人生の苦の因縁を知り、己を調えていくものです。己を調え、己の生を悔いなく生き尽くすことだと思います。だから、あの頃の自分自身より、この坐禅会に参加していただいた方々の坐禅に、歳を重ねた分、「己事究明」「生死事大」の気概、己の生をいかに生き尽くし全うするかの思いを切実に感じさせていただいたのです。

 坐禅で大事にしなければいけないところとして、呼吸があります。坐禅の一呼吸に己の生をググッと詰め込んでいるような人もおります。
 お釈迦様は、『四十二章経』という仏教徒としての生き方を示されたお経の中で、「人の命は、一呼吸の間である」とおっしゃいました。
 「呼吸」を「息」ともいいます。『日本語源大辞典』では「息」は「生き」から来ているとあります。お釈迦様の考えと日本語の語源の思いが共通している事が不思議ですが、人として、日本人もインド人も何か通底するものがあるように感じられます。「一生(ひといき)は一息(ひといき)」なのです。この一息に、今ここにいる己の因縁を省みて、深く吐ききる呼吸、息を尽くす呼吸をするということなのです。

 以下は、この坐禅会に参加していただいたある方が坐禅を始める因縁話です。
 この方は、お年を召してからマラソンを始められ、今年の正月にもハーフマラソンを完走されたほどの方です。この方の奥様は、十余年前にお亡くなりになりましたが、奥様の臨終の前に見せられた苦しそうな表情が忘れられませんでした。
 「妻が緊急入院した病室で、臨終近くに見せた苦悶の表情は、私に一瞬、断末魔の言葉を思わせたほどで、日ごろの柔和さを見慣れた私の理解を超えており、葬送の後もずっと心の痛みとして残り、容易には晴れませんでした」。
 「断末魔のような表情」とは、ムンクの「叫び」のような表情を思い浮かべさせます。きっと、奥様の苦しみを想像されたのでしょう。私ならば、共に生活した夫婦生活そのものの苦しみだったのかとも想像してしまいます。はてしない想像の中で、大きな不安を抱えてしまったでしょう。そして、この方は、「対象をもぎとられたようで心がぽっかりと、虚ろというか、大きな喪失感に襲われました」と言います。
 その後「揺らぎに揺らぐ心の平衡を求めて」坐禅に出会いました。「時間がかかりましたが次第に深い呼吸の坐禅に集中できるようになりました」と言われるように合同坐禅会でも静かに坐られていました。

 この坐禅とのご縁が、対本宗訓(つしもとそうくん)師の著書との出会いに結びつきました。対本師は、臨済宗仏通寺派の管長を退任後、僧医としてご活躍の禅僧です。対本師の著書からこの方は、人によっては衰弱による機能不全から下顎呼吸(かがくこきゅう)になってしまい、結果的に苦悶の表情のように見えるようになるケースがあることを知りました。人は、死の直前まで呼吸を求めるのです。息を尽くそうとするのです。知らない事、分からない事によって、いたずらに畏怖し、思考を停止してしまい、苦しみが増幅されると対本師は言います。

 この方は、坐禅との出会い、そのご縁によって、「死を忌事とする思考停止線をソフトに超え得たような気がしております」と言います。死をいたずらに畏怖することなく正しく見つめ直そうとする姿勢に転じたのです。
 私たちは、歳を重ねるとともに、死を近くに感じるようになります。怖いからといって避けることなく、己の生かされている因縁として見つめていきたいものです。坐禅会に参加されたこの方も「今日一日を全力で」と言います。

 お釈迦様は、一生は一息であるとおっしゃられました。今、ここでこの一息を息尽くすことが、今、ここに至る己の因縁を生き尽くすことなのです。