法 話

四十二章経の教えシリーズ〔6〕
「ゆるすということ」
書き下ろし

岡山県 ・報恩寺住職  蘆田太玄

「第六章」
 私がブッダの道を守って、人々に慈悲の心で接しているのを聞き、[それに嫉妬して]危害を加えようとする人がいても、私は慈悲の心で彼を迎える。たとえば、わざわざやって来て、私を罵(ののし)るようなことがあっても、私は黙って何も答えず相手にしない。そして、かえってその人をあわれみの心でみる。悪口を言う愚かな者に対して、そのように対応して、暫(しば)らくして相手が落ち着いて罵ることをやめたのを見て、私は次のように問いかける。
「あなたが贈り物を持ってある家を訪ねたところ、その相手が贈り物を受け取らなかったら、あなたはその贈り物をどうしますか」
「持って帰るより仕方がないでしょう」
「今、あなたは私を罵りましたが、私はそれを受け取りません。それをあなた自身が持ち帰って、あなた自身に浴びせなければならないのです。それはあたかも、人の声にこだまが応じるように、また影が物の形に従うようなもので、[決して自分が作った過ちを]逃れることはありません。ですから、決して悪いことはしてはいけないのです」。

(『四十二章経』より)

 誰でも悪口を言われれば腹が立ちます。人間ですから当たり前です。しかし、その対処法を間違ってしまうと私たちの心は傷つき、良くない方向へと向かってしまいかねませんから、慎重に対処することが必要です。冒頭に引用しましたお釈迦様の教えの一つ面白いところは、たとえお釈迦様であっても「頭に血がのぼってカッカとしている人を相手にしてはいけない」と思っているところです。売り言葉に買い言葉で喧嘩をしていては相手の心はおろか自分の心も救うことはできないとお釈迦様は厳に諭しています。
 「頭に血がのぼってカッカとしている人」というのは、ともすれば自分自身がそうなってしまうかもしれない存在でもあるということです。目の前で腹を立てている「他人」ではなく「自分自身」にどう接するのか。つい頭に血が上りそうになってしまった時にはそう考えることで為すべき事が自然と浮かんでくるのではないでしょうか。

 医師で、100歳を越えてもなお生涯現役として医療活動に携わり続けられた故・日野原重明氏がその著書の中で「ゆるす」ということについて次のように述べておられます。

 「恕」には本来、「おもいやり」の意味があります。「心」の上に「如し」をかぶせている字の成り立ちから、相手のことを、自分のように考えることだと、私は思っています。自分と同じく、他人も過ちを犯す人間であり、他人から、そして仏から「恕(ゆる)される」ように自分も他人を広い心で「恕す」ことが、寛恕(かんじょ)だと思うのです。

(日野原重明『いのちと平和の話をしよう』より)

 自分も相手も同様に決して完璧な存在ではないという意識を持つことが本当に大事であるということだと思います。だからこそ、傲慢なこころを戒めて冷静に相手をゆるすことのできる心持ちが今、我々一人一人に求められています。

ren_2005a_link.jpg 新型コロナウイルスの影響で世の中は未だかつて経験したことのないような状況にあります。誰しもが普段と違う緊張状態にさらされ、普段よりもずっとストレスの溜まる生活を送らざるを得ない現状があります。学校に行きたい。外に出て遊びたい。旅行がしたい。飲み会がしたい。様々な欲望をぐっと抑え、我慢してくださっている皆さんの努力によって世の中がなんとか持ちこたえられています。
 そしてこの緊急事態の中にあっても世の中を停滞させないために日夜努力してくださっている方々、また、新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めるために日夜奔走してくださっている医療関係者の方々には本当に深く深く頭の下がる思いであります。

 私たちにできることは限られていますが、自分自身はもちろん、自分にとっての大切な人を守るため、そして誰かにとっての大切な人を守るために皆様と共にしっかりとこの「ステイホーム週間」を過ごして参りたいと思っております。皆様もどうぞご自愛くださいますよう深く祈念申し上げます。