法 話

疫病と施餓鬼
書き下ろし

東京都 ・興慶寺住職  蓮沼直亮

 今、新型コロナウィルスの流行に全世界が先の見えない不安を抱えています。様々な行事やイベントが自粛される中、各寺の施餓鬼会も中止や檀信徒を呼ばず縮小した形で供養するところが多い様です。

 施餓鬼は、焔口餓鬼に「お前はあと三日で死ぬ」と脅された仏弟子阿難が、無数の餓鬼への施食によってその命を長らえたという『焔口陀羅尼経(えんくだらにきょう)』の教えに由来します。現在私たちが知る施餓鬼会の多くは、施餓鬼棚に野菜や乾物を御供えし、洗米や浄水(甘露水)を餓鬼に手向ける功徳によって、各家先祖、有縁無縁の御霊を供養する法要であります。
 しかし、弘法大師により日本に伝えられた頃の施餓鬼は、除病延命を祈る密教の修法であったようです。禅門でも施餓鬼による疫病退散の祈願は行なわれていました。京都東福寺を開かれた圓爾(聖一国師)が博多の承天寺に住していた頃、博多では疫病が流行し多くの死者が出ました。そこで、圓爾は弟子に担がせた施餓鬼棚に自らが乗り、甘露水を街中に撒くことによって疫病を鎮め、犠牲になった多くの命を供養されたのです。このことは博多祇園山笠の起こりと言われています。

ren_2006b_link.jpg こうした故事を振り返ると、今こそ施餓鬼によってコロナウィルスを鎮めたいところですが、現代の医学や感染症予防の見地に立つ時、法要に人が集まることが感染のリスクを高めるということは一見皮肉なことにも思えます。しかし、施餓鬼は寺での法要だけでなく、私たち一人一人が日常生活でも実践できる供養であります。阿難と焔口餓鬼の話に見る施餓鬼の教えは、私たちが貪欲の心によって餓鬼道に墜ちぬよう、限りある飲食を皆なと分け合う大切さであります。コロナ騒動に追い打ちをかけたことの一つは、衛生用品や日用品の買い占めです。われ先にとスーパーへ押しかけ、奪い合う様に買い物をする人たちがテレビでも度々報じられました。この光景を目にした時に、まさにこれが餓鬼道ではないかと感じたのです。見えないウィルスへの不安により冷静さを失い、つい必要以上の物資を求めてはいないか。私自身も考えさせられました。

 『薩遮尼乾子経(さっしゃにけんしきょう)』というお経に

當(まさ)に知るべし衆生のあらゆる病は皆な貪瞋我慢を因と為すに由る、
因に従りて果あり此の苦報を得る......。

とあります。我慢とは慢心のことですが、心の貪瞋我慢が身病の原因になるということです。

 「自分さえ良ければ」という貪欲に、医療物資が不足します。「あいつが罹ったせいで」という瞋りに、感染者は申告しづらくなります。「自分だけは大丈夫」という慢心に予防を怠ります。
 古人が施餓鬼によって疫病を退散させようとした祈りは、こうした心を正す願いであったのでしょう。施餓鬼会で餓鬼に施す洗米や浄水は僅かなものかもしれません。しかし、経文を唱えながら供養すれば、僅かな施食が無量の食事となり、餓鬼のお腹を満たしてくれるのだと言われています。まだまだ感染予防に油断ができない状況で、私たちにできることは限られているかもしれませんが、周りの人を思いやりつつ、今自分が本当に必要な物、必要なことをよく考えて生活することも施食の心、施餓鬼の供養でありましょう。
 皆さんによる日々の施餓鬼によって、一日も早くコロナの流行が落ち着くことを願って止みません。

(参考:高田道見『佛教疑問解答集』)