法 話

目線と視線
書き下ろし

石川県 ・吉祥寺副住職  山田真隆

 今では誰もが当たり前のように使っている「目線」という言葉。私ももちろん使っています。ですが、この詩を見てから印象が変わってしまいました。

視は見ることだから、見る眼と見られる対象の間に
架空の線を想定し、視線というのは自然だ。
   〈中略〉
目は静止しているから、目と対象の間に架空の線を
想定できない。だから、目線は不可解な言葉だ。

(中村稔『むすび・言葉について 30章』より)

 こう言われると、反論の余地はありません。目線という言葉を不用意に使っていた自分が恥ずかしくなります。

 ren_2102b_link.jpg視線を目線と言い換えるようになったのは、いつからかはわかりませんが、ここ最近になってからの言い換えであることは間違いないでしょう。そしてそれは、現代人の心の変わりようと関係があると見るのは、穿ちすぎでしょうか。
 視線を目線と言い換えることは、先の詩でも言っているように、動いていることと静止していることの違いがあります。だから視線の「視る」は、目という器官の行動であり、働きです。
 「眼に在っては見ると曰(い)い」(『臨済録』)と祖師の教えにもあります。ごく当たり前のようですが、目という立派な器官本体を持っていても、それを働かせる術、ものをよく見るという行ないをしなければ、目が無いのと同じだという、祖師の指摘です。目線という言葉は、人間が本来発揮する、見るという働きを示していません。
 本当の意味で、見るという働きを失いつつある現代人の在り方と、どうしてもオーバーラップしてしまうのです。

 コロナウィルスの蔓延以降、ますます自分のことも、ましてや他人のことも見なくなってしまった私たち現代人にとって、働きを示さず器官のみを示す、この目線という言葉は、必然として取って代わったのかもしれません。目線からさらにエスカレートして、「上から目線」なんていう言葉も言われて久しいですが、こんな醜悪な言葉が生み出される背景が、現代社会にあるという事実に、私たちはもっと向き合う必要があるのではないでしょうか。
 少しの目と書いて「省みる」です。目を少ししか使っていない、つまりよく見ていないという自戒が「省みる」ということです。見ていないという自戒を元に、省みるとどうでしょうか。

水音と虫の音と我が心音と

(西村和子『心音』より)

 省みることで、人は「~してみる」という可能性を持てるのではないかと、私は考えます。例えば、やってみる、歩いてみる、食べてみる、考えてみる、そして聞いてみる、のように。この俳句の作者・西村さんも、省みて、聞いてみたのでしょう。すると、水音(みずおと)、虫の音(むしのね)、心音(しんおん)と、自分の周りにはいろんな音があることに気が付いた。特に最後の心音は、自分が生きている紛れもない証拠です。音を奏でるものそれぞれが、自分を生かしているという事実に西村さんは気付いたのです。
 よく見る、省みることで解決することはたくさんあるはずです。皆さんも、思わず目線という言葉を見たり、あるいは自分が使っていたら、いいきっかけです。目という器官をどれだけ働かせているか気にかけてみてください。そしてできるだけ目をよく働かせて、目線ではなく視線を注ぐようにしてみてください。きっと世界が広がります。