法 話

お盆のご供養
書き下ろし

静岡県 ・東福寺住職  伊藤弘陽

 毎年、お盆が近づいてくると「お盆の先祖供養はどうしたらよいでしょうか」という質問をよく受けます。このような質問を聞くたびに思い出されるのが曹洞宗の余語翠巌(よご すいがん)老師のお話です。

本当は、ご供養なさるときは、お経を読んだり、お花を捧げたり、お線香を供えたりして、手向けの回向をするわけですが、それでおしまいというわけにはいかんのです。本当にご先祖さまのお喜びになることは、みなさんがしゃんとしてゆくことじゃから。それがいちばん大事なことになりますから。ま、お寺に来ての法要のあとでは、これからの法供養は、みなさまの心へ転ずるわけです。

(『心の種がふくらむ話Ⅱ』佼成出版社・1995)

 先祖のご供養といえば、お経を読んだり、お花やお線香を供えたりと形式的なことばかりが注目されがちではないでしょうか。でもいちばん大切なことはお墓やお仏壇のことだけではなく、それを拝むみなさんの心の中にこそある。そのように老師はご指摘されているように思います。
 でも私たちの心の中はどうなっているのかというと、「喜怒哀楽」というように常に絶え間なく変化を続けています。「私」を中心にして、そのまわりで起こる様々な出来事に一喜一憂しながら、毎日生活をしているわけですが、そういった心のままで本当に幸せをつかめるのでしょうか。

 ren_2108b_link.jpg私事ではありますが先日、右足を負傷して思うように動けない時期があり、「お寺の境内を掃除しなければ」という気持ちばかりが空回りする憂鬱な時間を過ごすことになりました。そんな中で足の痛みに耐えながら境内を見廻りしていると、お墓参りに来られた方が自分のお墓だけではなく、境内の落葉や雑草を掃除してくれていたのです。もちろん私が依頼したわけではありませんし、私が負傷していることを知ってのことでもありません。しかも一人二人ではなく、何人もそういった方がいらっしゃいました。私は思わず「ああ、仏様のようだな」とただ手を合わせるばかりでした。
 忙しい毎日の中で、どうしても自分中心に物事を考えてしまいがちですが、ケガの功名というべきか、多くの人々に支えられてお寺が成り立っていることをしみじみと感じる機会となりました。
 円覚寺派管長でいらっしゃる横田南嶺老師は御著書の中で、

多くのお経や仏像はみな人の本心とは何かを説いています。本心を見失ってしまった人の為にこそ、教えがあり仏像がございます。お経を学び、仏像に手を合わせ、各々の本心に目覚めることが大切です。その人の本心とは、人の苦しみのわかる心、思いやりの心、即ち「慈悲心」に他なりません。

(『仏さまのこころ』鴻盟社 2021)

と説かれています。掃除ひとつは小さなことかもしれませんが、生まれ持った「慈悲心」を活かして生活していくことが、「ご先祖様がお喜びになること」であり、みなさんが幸せをつかむために大切なことなのではないでしょうか。