京都府 ・興雲庵住職 坂井田泰仙 |
3月に入り少しずつ寒さも和らぎ、春の足音を感じられる時節になってまいりました。ただ、本年も年明けから新型コロナウイルスの新種株の感染拡大により再び私たちの社会生活に大きな影響が出ました。長引くコロナ禍での生活において生じる経済的な不安、将来への不安、自由を制限されることによるストレス等が蓄積し、心のバランスを崩して鬱病を発症するケースも出てきております。今はとにかく「当たり前の日常」が一日も早く戻ってきてくれることを祈るばかりです。 禅は行動することを欲する。最も有効な行動は、ひと度決心した以上、振返らずに進むことである。この点において、禅は実に武士の宗教である。 (鈴木大拙『禅と日本文化』第三章「禅と武士」より) と述べられています。 たとえばここに林檎が一つある。林檎はできる時に、儂(わし)は今赤くなって、こういう形になって、こういう時季に成熟してやろうとは考えない。(中略)林檎自身は初めての種子のときも、地中に落とされたときも、水を潤おされたときも、そのもとの仏の誓いそのままで、あらゆる因縁の中に、無心に生きのびて行くだけのことなのです。(中略)何事も仏の誓い-あるいは命と言ってもよい-そのままに生きて行くだけです。」 (鈴木大拙『無心ということ』より) 大自然の中で生きている林檎の木は無心に成長して花を咲かせ、大きな実を結んでいきます。そこにはなんの計らいもありません。たとえ日照りや台風などに見舞われたとしてもそこでじっと耐え偲び、その命をつないでまさに無心に生きています。大拙は林檎に自らの姿を重ね合わせ、様々な世の不条理という現実をありのまま受け止め、その上で自らどう生きるべきかという道を模索し、日々淡々と為すべきことを為していく、それが無心に生きることであると言われています。 (文中敬称略) |