法 話

鈴木大拙の世界シリーズ〔2〕
「そのままの自分を生きる」
書き下ろし

栃木県 ・報恩寺住職  伊藤賢山

 ren_2204a_link.jpgお寺の境内を見まわすと、木や草花など様々な植物が目に映ります。太陽の光や、雨は全ての植物に等しく降り注ぎますが、種類によって成長の度合いは異なり、それぞれ姿かたちは変わってきます。大きな木が小さな木になることはできません。違いがあるままにそれぞれが独自の成長をするように、私たち人間も、等しく教えを受けてもそれぞれ結果は異なります。

 明治から昭和期に活躍され、世界に禅の教えを広めたことで知られる仏教学者の鈴木大拙は、

「人間以外のものはそのままに生きていく。松は松なりに竹は竹なりに生きていく。松は竹にならず、竹は松にならずに、自分が主人となって働くのである。」

と説かれました。

 しかし私たちは、とかく比較をしてしまいがちではないでしょうか。

 年末に近隣のお寺に手伝いに行った時のことです。そのお寺の住職は高齢ですがお元気で、今でも庭木の手入れをご自分でされています。作業をしていると、ひょっこりと小学生らしき男の子がやって来ました。近くに住んでいるそうで、以前にも来たことがあり、その時に住職から「また来て、庭の手入れの手伝いをしてくれ」と誘われていたそうです。
 住職は喜んでいる様子でした。少し手伝ってもらってから、休憩時間になったので軒下のベンチに三人で座り、しばらく雑談をしました。すると話をしていく中で、男の子が二歳の時に父親を亡くしていること、住宅メーカーに勤める母親との二人暮らしであることが分かりました。私はその話を聞いて、男の子は寂しい思いを抱えているのでないか、生活する上で色々な不都合があるのではないだろうか、と深刻に受け止めてしまい、どう接していいか分からなくなってしまいました。

 しかし住職はそれまでと全く変わらない様子で、和やかにこのようなお話をされました。「手伝いに来て偉い。言われたことを一生懸命にやっているのもすばらしい。お母さんが頑張って働く姿を見ているからだろうな。あなたはお父さんがいる友達を羨ましく感じることもあるかもしれないが、この庭を見てごらん。木や草は種類が違うと姿が違う。同じ肥料を与えても、真っ直ぐ育つやつもいれば、横に育つやつもいる。あなたは身体が大きいけれど、身体が小さい友達もいる。足が速い人や、勉強が苦手な人もいる。違いがあるのが自然で、同じであるのが不自然なんだよ。他の人と比べることは大切ではないんだ。自分を大切にして、自分がこれだと決めたことを頑張ることが大事なんだよ。」
 男の子は真剣に話を聴き終えると、嬉しそうにうなずいていました。

 住職と男の子の交流を見ながら私は、自分の未熟さを感じていました。自分は比較ばかりしていることに気付かされました。男の子の家庭環境に対しても、他の子供と比較し、どちらが良いのかという視点からしか捉えていませんでした。
 たとえ平等に恵みを受けたとしても、草木は種類が違えば姿かたちは変わってきます。大拙が説く「松は松なりに竹は竹なりに生きていく。松は竹にならず、竹は松にならずに、自分が主人となって働くのである。」の真意はここにあるのでしょう。
 私は、男の子にとってお父さんがいないことがマイナスだと捉えてしまいました。しかしそういった環境で過ごすからこそ、お母さんが頑張っている姿を目にし、見習って一生懸命頑張ることができる。こう考えることができれば、とても気持ちが前向きで、明るくなるように思えます。

 大拙と同じ時代を生きた詩人の金子みすゞさんの作品に、『私と小鳥と鈴と』という詩があります。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 自分の尊さを噛み締め、そのままの自分を生きていきたいものです。