法 話

鈴木大拙の世界シリーズ〔4〕
「水鏡の庭に想う」
書き下ろし

静岡県 ・宝積寺住職  石井訓広

 ren_2206_link.jpg禅の教えや思想を西洋に広めた鈴木大拙は、金沢の生まれです。その金沢に、大拙の足跡を伝える鈴木大拙館があります。私も以前「金沢を訪れたならば足を運ぶべき場所」と教えられ訪問させて頂きました。
 鈴木大拙館は、大拙に関する展示物が極めて少ないとても印象的な施設でした。中でも一番印象に残ったのが「水鏡の庭」と呼ばれる、コンクリートの浅いプールに水を張った場所でした。「水鏡の庭」という名前の通り、水の表面は鏡のようにあたりの景色を映していました。水面に映る美しい景色を見ていると、突然プールの底から大きな気泡が湧き上がり、水面に波紋が発生しました。「水鏡の庭」には1~2分に一度、プールの底から空気が吐き出される装置が付いていたのです。プールの底から空気が吐き出されることによって、「水鏡の庭」の水面に波紋が広がってゆくのでした。

 水面に広がる波紋の演出は、何を意味しているのだろうかと自分なりに思索してみました。鈴木大拙館なのだから、きっと大拙の足跡や教えを表現しているのではなかろうか。もしかしたら、禅の教えが伝わっていなかった西洋に、水面に波紋が広がるように、大拙がその思想を伝えたことを表わしているのだろうか。大きな波ではないけれど、禅の教えがゆっくり確実に西洋の人々に伝わっていったことを、示しているのではないだろうかと考えました。
 はたまた、本来静かであったはずの心が、日常身の回りに起こる出来事に振り回され一喜一憂することで、波立つ様子を表わしているのだろうかとも考えました。

 仏教では、調った心を鏡に例えることがあります。鏡はとらわれやこだわりなど一切なく、あるがままに目の前のものをただ映します。鏡に映るものがきれいだとか汚いだとか、区別は一切ありません。鏡は無心です。だとすれば、水鏡に波紋が広がるのは、あるがままにものごとを捉えることができずに、揺れ動いてしまう心を表わしているのだと考えることもできます。
 大拙は著書『無心ということ』の中で「東洋の心は無心になること」と記しています。また、「無心というのは、はからいをやめる、はからいのないということです」とも記しています。
 大拙の盟友で、同じ金沢出身の哲学者であった西田幾多郎博士は、
「わが心 深き底あり 喜(よろこび)も 憂(うれい)の波も とどかじと思う」の唄を残しています。これは、西田家の家族が相次で亡くなり、片時も心の休まるときがなかった時期に詠まれた唄なのだそうです。

 私たちの心は、日常の出来事に振り回され、また過去に捉われたり、未来を案じたりして一喜一憂するものです。しかし、心の奥底には少しも揺れ動くことのない、本来の自己が存在しているのだと示して下さっています。
 波紋が広がる水面と揺れ動くことのない水底。大拙の教えを伝える鈴木大拙館の「水鏡の庭」に広がる波紋は、私たちのたゆたう心を表わしているのかもしれません。コロナウイルスの蔓延やロシアのウクライナ侵攻によって、世界中の人々の心も、そしてこの日本に住む私たちの心も大きく波打っています。はからいをやめて、心の中の波紋を整えて、無心にあるがままにものごとを見つめて生きて行きたいものです。