神奈川県 ・禅居院住職 山名田紹山 |
ご存じの通り、鈴木大拙には禅と日本文化を論じた文章が多くありますが、『仏教の象徴主義』と題された一文に、彼は芭蕉の「古池や」の句について極めてユニークな解釈を披露し、こんな風に述べています。 この俳句自身が関する限りでは、芭蕉によって目撃された現象のありのままな陳述の埒を越えてはをらぬ。一小助詞の「や」を除いて、この出来事の主観的様相と名づくべきものへの何の言及も無い。ところで、実はこの「や」が大切なのであって、これが据わってゐればこそ一句の全意が汲みとれる。これあるによって、この句は、蛙が古池に飛び込み、そのために水の音が生ずるといふ客観的叙景から蝉脱(せんだつ=古いしきたりや束縛から抜け出すこと)する。(中略)何故、芭蕉は「古池や」と叫んだか?この場合英語の感動詞「おお!」に相応するこの「や!」は、どのような意義をこの句の爾余に対してもつてゐるか?この助詞は、爾余の対象や出来事から古池だけを選び出し、特にそれを注目の的とする力を具えてゐる。だから「池」とさへ云えば、この句で特に述べられてゐる一聯の出来事だけにとどまらず、人間の実存世界を構成する無尽蔵の事物全体が、それとともに顕現するのである。 一個の切字をこれほど熱く論じた句評は他に類がなく、また切字を英語の感動詞に対照する斬新な指摘に、俳人からも高く評価されている見解です。大拙の主張を私なりに嚙み砕くなら、この「や」一字によって、芭蕉は眼の前の風景の単なる描写を越えている。この句の、古池と蛙とその運動と水音という、17音に切り取られた一瞬の光景と、その光景を体験する芭蕉とは、この「や」一字によって、ぴたりと一つになっている。しかも、この「や」一字によって、その瞬間、それらと同時にある世界と存在の一切が、芭蕉自身の生において、ぴたりと一体に生きられていることを表している。そして、句を読む我々の目の前に、その全てを出現させて、こちらをも一つに取り込んでいく。この切字「や」は、それ一音のみでそれだけの力を発揮している。 古池や芭蕉飛びこむ水の音 こうして並べてみると馬鹿々々しいだけに思われるかもしれません。確かに滑稽は滑稽、けれども、どうもこれらのパロディーは滑稽だけでは済まないようにも感じます。大拙居士が絶賛する芭蕉の句。しかし、百年後の仙厓さんの時代には、かなり有名な句になっていたのではないでしょうか? ましてや今のように知らぬ者の無いほど人口に膾炙(かいしゃ)してみれば、多くの人にとってこの句は、教科書的な、古臭い風景詩としか理解されない惧れがあります。それこそ句の字面だけが追われ、精彩を欠いた絵面として、芭蕉が活写する全宇宙的躍動が見損なわれ、凋んでしまうのです。例えば「古池や何やらポンと飛び込んだ」というパロディーは、そんな無味乾燥な読みに対する強烈な皮肉とも取れなくはない。そこで、自由奔放なパロディーの遊びを通して、仙厓さんはこれでもかこれでもかと、古池の句における芭蕉の真骨頂を我々に際立たせているようにも感じます。 |