大阪府 ・天正寺住職 佐々木奘堂 |
剣を把って立ち合うというのは命のとりやりになるのだから、一刻も自分を忘れなどしたら、命丸出しになる話でなければならぬ。危険千万な心がけである。 この文で大拙がいう「自分を忘れ」というのは、「ボーっとする」という意味でしょう。例えば戦国時代の侍が、真剣をもって相手と立ち合う時、ボーっとしていたら、すぐに相手に切り殺されてしまいます。「ボーっとする」という意味での「自分を忘れる」は致命的ですが、では逆に、「自分を忘れてはいけない」というので、自分の体のことや持っている剣のことを考えていたら、どうなるでしょう? ところが実際の上では、自分のことを考えていると、そこにそれだけの隙が出てくる。ちょっとの隙でも隙が出れば、そこに相手の剣を招くことになる。それで命を落とせば事実は自殺したのである。 相手と真剣をもって立ち合っている時に、何か考えごとをしたり、自分のことをアレコレ考えていたら、それが「隙」になり、やはり相手に切り殺されてしまいます。「自分のことを考えている」が自殺行為となってしまうわけです。 剣刀上の試合は電光石火で、「私」を容れる余地がない。ところが、命の取り合いという際どい間際に自分をどうして忘れうるか。ここに人間心理の極微が窺われるのである。事実「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのである。ここを悟るのが剣の極意である。剣の妙である。 「ボーっとする」という意味で「私」を忘れても殺されてしまう。「アレコレ考える」という「私」があっても殺されてしまう。「真剣」をもって立ち合うような場では、このような大問題があるのです。 人間万事の上について、悉くこういえるのである。禅の修行は、その最も根源的なところに、この機を悟らせようとするのである。豈にただ剣のみならんやである。 現代の生活では、普通に生きている人が、文字通りの意味の「真剣(木刀でなく本物の剣)」を持つ機会はないでしょう。ですが、通常の意味での「真剣(いい加減や遊び半分でなく真面目な姿勢)」にならなければならない機会は、もちろん多いわけです。「剣道」をするという一つの道だけでなく、人間が行なうすべての行動において、ここに述べたような意味での「真剣」は極めて大事なわけです。 |