大分県 ・大光寺住職 武多宗隆 |
仏教学者の鈴木大拙は次のように述べています。 無意味の意味に生きることが、いわゆる無心の境涯だと自分は言いたいのである。 (鈴木大拙『無心ということ』より) 何とも虚しく思われるかもしれませんが、そうではありません。宋代の士大夫で禅の信奉者でもあった蘇東坡は次のような有名な句を遺しています。 紈素画かず意高き哉 (蘇東坡『東披禅喜集』より) 常に真っ白な心でいるからこそ、様々に美しい世界が無限にそこに現われる、と蘇東坡は言っているのです。そして、そこに描かれた景色でさえも忘れてしまうことが大切です。白地の画布に後付けされた色に、いつまでも執着してしまえば、「二に堕し来る」つまり、いつでもそこにあるはずの本当の美に気付けないというのです。 富とか権力とかいう外的証拠を信用しないという事なら、そんなに難しいことではないだろうが、知識も正義も、いや愛や平和さえ、外的証拠に支えられている限り、一切信用することができないという処まで行く事は何んと難しい業だろう。 (小林秀雄『信仰について』より) 小林秀雄は、これを「自己放棄」と呼びました。自分を単なる記号と化してしまうものを捨てることです。 西行が、虚空の如くなる心において、様々の風情を色どる、と言った処を、芭蕉は、虚に居て実をおこなう (小林秀雄『私の人生観』より) 無意味とは、ともすると虚しいだけと捉えられがちですが、この「虚」とは、実に大きく深いものなのです。むしろ、意味に囚われすぎて、かえって虚しくなることもあるでしょう。 |