法 話

白隠禅師のこころシリーズ〔11〕
「心の工夫」

京都府 ・養源院副住職  平塚景山

rengo1708a.jpg 今年、250年遠諱を迎えた白隠慧鶴禅師は、江戸時代中期に駿河国原宿(現在の静岡県沼津市原)に生まれ、厳しい修行の後、臨済宗中興の祖とまで称されました。武士から農民まで広く教えを説くため、多くの書画や著書を残したことでも知られています。『遠羅天釜(おらてがま)』は仮名の法語で書かれ『夜船閑話(やせんかんな)』と並び、最もよく読まれた著書の一つです。
 『遠羅天釜』の中に「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉があります。禅宗の修行道場では、坐禅修行の他に作務(さむ)と呼ばれる農作業や掃除、雑務等のいわゆる日常生活の修行があり、この場合「静中」は坐禅、「動中」は作務といえます。「工夫」とは、修行に精進することを意味し、そのまま訳すと、作務中の工夫は坐禅の百千億倍になります。

 私が修行道場にいた頃、坐禅のような修行こそ道場に来た意味があると、雑務等の作務を軽視し、坐禅中に眠くならないように体を動かす作業の手を抜くことも度々ありました。坐禅中の居眠りもさることながら、作務中の手抜きは諸先輩の叱責をひどく喰らいます。摂心(せっしん)という坐禅三昧の修行に入る前、修行の手本、模範が書かれている亀鑑(きかん)が読み上げられ、「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」を聞き、作務の大切さに気付かされました。ただし、わざと静中の工夫をやめて動中に入れという意味や、坐禅より作務の方に価値があるなどという意味ではありません。

 『遠羅天釜』の「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」の前文にはこう書かれています。

   只動静の二境を嫌はず取らず、密々に進修しもて行く事第一の行持に侍り

 動中と静中どちらかを好んでするのではなく、どちらも同じように励むのが一番大切だと白隠禅師は説いています。つまり、禅宗における静中(坐禅)の工夫に偏りがちな修行者への戒めとも捉えられます。

 我々の生活に於いて、例えば大事な仕事が「静中」、それ以外の雑務が「動中」。あるいは、一日の中で仕事など重要としている事柄が「静中」、家事などが「動中」ではないでしょうか。私たちはついどちらかに優劣をつけ、片方をないがしろにしがちです。しかし、雑務や家事を疎かにすると仕事や重要としている事柄も共に上手くいかないものです。普段の生活が乱れていては良い仕事はできないでしょう。
 一日の中で自分のなすべきことに優劣をつけずに、どちらも純一に励む。これが白隠禅師の説く「心の工夫」ではないでしょうか。