法 話

大用国師のこころシリーズ〔1〕
「縁にしたがって」
書き下ろし

神奈川県 ・正福寺住職  松原行樹

 円覚寺では今年、元管長・釋宗演禅師(1860~1919)の100年遠諱、そして来年は円覚寺中興開山である大用国師(だいゆうこくし)誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)禅師(1745~1820)の200年遠諱を迎えます。遠諱とは50年ごとに営まれる法要のことですから、この法縁に巡り合うことは決して容易なことではありません。

rengo1801b.jpg 誠拙禅師は現在の愛媛県宇和島市の生まれで、円覚寺の山門の建立や専門道場を開くなど、当時荒廃していた円覚寺を再興しました。
 誠拙禅師が3歳の時に父が他界。間もなく母は再婚をして子が生まれ、禅師は7歳にして宇和島の佛海寺霊印和尚に預けられ出家しました。

 小僧時代のことです。
 宇和島藩主伊達公がお見えになり、参勤交代の折りに江戸へ行くので法衣を買ってくるという約束をしました。後日、伊達公が法衣のことをすっかり忘れていたことを知ると、「武士に似合わぬ二言のやつめ」と伊達公の頭を叩いたのです。慌てて必死に低頭する師匠の霊印和尚でしたが、伊達公は「この子はきっと大物になるであろう。大事に育てよ」とおっしゃったのでした。
 このようにやんちゃな小僧さんでしたので、お寺からお母さんが呼ばれることも珍しくなかったようです。
 後に誠拙禅師はこんな歌を残されています。

  おとずれて いさめたまいし 言の葉の 深き恵みをくみて 泣きけり

 幼少の頃からお寺へ預けられ、母から慈愛を注がれることなく、不幸な人生だと思っていたけれど、我が子と離れ離れに暮らさねばならなかった母の気持ち、さらにはお寺までの約20kmを歩いてきては、いさめてくれた母の言葉、その一つ一つが実は母からの慈愛であったと思っては涙があふれてくるというのです。
 寺に預けられた当初は、自分だけの価値観、独りよがりの気持ちしかなかったけれども、母も自分と同じように悲しんでいたのだ。そう思うと、心に留まるものがなくなっていったのです。

 誠拙禅師は27歳の時、当時師事していた月船禅慧禅師(1702~1781)の勧めによって円覚寺へ出世します。しかし当時の円覚寺は伽藍も僧侶も荒廃しており、幻滅した誠拙禅師は月船禅師のもとへ戻ります。ところが月船禅師の「見損ないましたかね」の一言で発奮、見事に復興させたのでした。月船禅師はそんな荒廃したところだからこそ、力量ある誠拙禅師を送り出したのです。

 日常生活を振り返ってみますと、私たちは都合の悪いことに背を向けたり、天秤にかけたり、分別したりしがちであります。そして、しこりやわだかまりといった自分の価値観に執着して、それを放そうとしないことが往々にしてあります。
 私たちが生きていくということは、ご縁をいただいていくということです。その一つ一つのご縁には自分にとってよいご縁もあれば悪いご縁もあります。
 しかし元々はたった一つのご縁なのです。それを私たちはつい、自分の都合で価値判断を添えてしまうのです。外から関わってくるご縁に、自分の都合によって分別心が生じても、この分別心を断って、どこにも留まらない、たった一つのご縁とそのまま向き合っていくことが自分を救い、そして周りにも安らぎを与えるのだ。どんな環境でも縁にしたがって心を留まらせてはいけないのだと、誠拙禅師のご生涯から教えていただきました。

 誠拙禅師は76歳で遷化されるまで、縁にしたがって現在の八王子市山田に廣園僧堂、京都に相国僧堂を開かれるなど東奔西走、各地でその教えを広められました。
 遠諱を迎えるにあたり、一人でも多くの方に禅師の教えに触れていただきたく、仏縁を結んでいただきたいと思います。