各派のご本山

御許山 佛通寺おもとさん ぶっつうじ

    概略・歴史

    佛通寺は応永四(一三九七年)年沼田荘地頭小早川春平公が愚中間及
    (大通)禅師を招請して開いた臨済宗佛通寺派の大本山で、寺号は大通
    禅師の師、中国金山寺即休契了禅師の諡号佛通禅師による。小早川一族の帰依を受けて寺勢は隆昌し、最盛期には山内塔頭八十八ヶ寺、全国に未寺三千ヶ寺を数えた。
    応仁の乱後、数度の戦乱にまきこまれ、小早川隆景公の治世に一時復興したものの、福島氏による寺領の没収などにより存亡の危機に立たされた。後に広島藩主浅野氏の外護のもと、再建修繕が行われたが、永享の大火、寛政の大火、さらに、明治初年には廃佛棄釈などにより苦境が続いた。
    明治三十八年、香川寛量和尚を初代管長として招請し、臨済宗十四本山の一つとして独立。専門道場を備えた京都以西で唯一の臨済宗の大本山として、法灯はおおいに挽回された。境内の景観堂字、収蔵文化財、中国金山寺式の経文の特殊な誦み方など、数多くの文化遺産が伝えられている。

    開山

    愚中周及(佛徳大通禅師)

    美濃(岐阜県)で生まれ、13歳の時に夢窓疎石禅師(天龍寺の開山)の下で修行し、後に春屋妙葩禅師の下で修行した。19歳の時に中国(元の時代)に渡り、金山寺(中国)の住職であった即休契了(彿通禅師)の下で7年間修行に励まれた。
    中国から帰国後(1351)、京都の五山叢林を嫌い、京都福知山の天寧寺において多くの弟子の育成を行った。春平の要望に応えて佛通寺を創建(1397)するとともに弟子の育成にあたった。応永16年(1409年)87歳天寧寺(京都府福知山)にて示寂し、佛徳大通禅師と論号された。

    伽藍

    山門

    寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化年間に再興されたもの。巴紋は大檀越小早川氏の家紋。鷹の羽の打違いは浅野氏の家紋である。

    仏殿

    佛通寺の中心の伽藍。須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。公式的な説法問答の場である法堂(はっとう)を兼ねる。寛政の回禄(1796)の後、広島藩主浅野家の外護で文化6年(1809)に再建。
    天井の雲龍図は備中松山の画工、菅南山筆(文化7年)。龍は仏法の守護神であり、また雲を呼び雨を降らせるところから火難除けの意もある。

    大方丈

    佛通寺の本堂。儀式法要、法話説法の場。
    この建物は「降魔殿(ごうまでん)」と呼ばれ、第三代管長山崎益洲老師筆の「降魔」の扁額が掛かっている。初めは毘沙門像が祀られていたが、現在は十一面観世音菩薩立像が本尊である。
    この十一面観世音菩薩立像は、頭部に十の小さな顔をもち、東西南北四維上下の十方をあらわす。
    本体のお顔とを合わせて、十一面となり、宇宙世界のすべてを隅々まで見透す慈顔である。観音様の慈悲のお力は、世界のどことして及ばないところはない、その広大無辺の姿を象徴である。
    もともと童子観音像は、開山堂前に建つ朱塗りの多宝塔の本尊として安座されていたが、大方丈内に遷座された。童子の顔を写したというこの像は、高村光雲工房の門派による作である。

    交通案内

    所在地

    〒729-0471 広島県三原市高坂町許山22

    アクセス

    JR山陽線「三原」駅よりバス「佛通寺」行きで40分、終点下車。
    JR山陽線「本郷」駅よりバス「佛通寺」行きで30分、終点下車。
    お車の場合、三原久井ICより約15分。