各派のご本山

瑞石山 永源寺ずいせきざん えいげんじ

    概略・歴史

    南北町時代の康安元年(1361)、近江国の領守佐々木氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室元光禅師を迎えて開山され、瑞石山永源寺と号した。
    禅師が遷化された後の、応安2年(1369)後光厳天皇は禅師を追崇され円応禅師の諡号をおくられ、さらに昭和3年(1928)4月には正燈国師の称号がおくられている。応仁の乱には、京都五山の名僧がこの地に難を避け修行し、"文教の地近江に移る"といわれるほど隆盛をきわめた。
    明応(1492)永禄(1563)とたび重なる兵火にかかり、本山をはじめ、山上の寺院悉く焼失。寛永年間一 絲文守禅師(仏頂国師)が住山し、後水尾天皇の帰依を受け再興された。明治以来、臨済宗永源寺派の本山となり、百数十の末寺を統轄し、坐禅研讃、天下泰平、万民安穏を祈る道場となっている。

    開山

    寂室元光禅師

    禅師は正応3年(1290)岡山県勝山の藤原家に生まれ、5歳で教典を暗誦するほどの神童で、13歳で出家。京都東福寺の大智海禅師のもとで修行し、15歳の時仏燈国師に仕え、18歳で国師の一掌下に大悟された。元応2年(1320)31歳から7年 間、中国天目山の中峰和尚につき修行。帰国されたのちも自然を友に詩や和歌を賦し、生涯行脚説法の旅を続けられた。そして、康安元年(1361)72歳で永源寺に入寺し開山された。山紫水明な仙境をことのほか愛され、貞治6年(1367)78歳で遷化されるまで修行僧の教化に専念された。芳玉禅師、夫一関禅師といった名僧をはじめ、師の高徳を慕って全国から集まった修行僧は二千人もあったといわれている。

    伽藍

    旦度橋(たんどばし)

    鈴鹿の山々を源に琵琶湖へと流れる愛知川。非常に静かな流れをなしているところから音無川とも呼ばれている。この川にかかる旦度橋の上から眺める上流の風景は、季節にかかわら ず美しい。

    大歇橋(だいけつきょう)

    当寺の北山から流れる一水か愛知川と合流する谷川を幡桃渓といい、この川にかかる橋を大歇橋という。昔はこの辺りに大歇亭があり正燈国師の 真筆の額が掲げられていたといわれるが、今は散失して橋の名前となっている。現在の橋は第140代石蓮実全禅師住持の大正8年(1919)に完成した。

    十六羅漢像

    大歇橋を過ぎ、参道の120段の石段(羅漢坂)を登りつめると、 左の岩山に釈迦・文殊・普賢像と十六羅漢の石仏が奉安されている。制作年代や作者も不明だが、おそらく歴代の住持が祈念して彫られたものであろうといわれている。仏像はそれぞれ違ったユニークな表情をしている。

    総門

    永源寺境内に入って最初にくぐる門。康安元年(1361)佐々木氏頼によって創建されたが、明徳元年(1390)兵火にかかり焼失。以後寛正5年(1464)に第16代虚白文玄禅師が再建。寺内の建造物では最も古い。四脚門の形式で、門の両側に土塀をつけた風格のある総門である。

    山門(文化財指定)

    総門の次にくぐる山門は、寛政7年(1795)123代丹崖禅師が彦根城主井伊家に図り建立に着手。7年の歳月をかけ享和2年(1802)霊隠禅師のとき完成した。楼上には釈迦三尊と十六羅漢がまつられている。

    本堂

    安心寺と号し、佐々木氏頼によって創建。しかし、たび重なる兵火、火災によって焼失の難にあった。現在の建物は、明和2年(1765)第112代拙堂禅師の時、井伊家の援助により建立されたもので屋根は葭(よし)葺きである。正面には本尊世継観世音菩薩、脇壇に一絲国師の尊像、歴代住持の位牌、井 伊家及び檀信徒の位牌が奉安されている。本堂隣の庫裡も兵火にあい、明和元年(1776)第117代怡山全育禅師の時に再建された 。庫裡は昭和54年(1979)雄峰禅師のとき改築された。現在は坐禅研修の道場として使われている。

    鐘楼

    文明2年(1470)虚白文玄禅師住山の時、祖宗道人より大鐘 が喜捨されたが、再三の兵火により焼失した。安永元年(1772)第116代実道禅師が造営されたが、大鐘は、第2次大戦に供出し、昭和25年(1950)第141代鳳禅師によって再鋳された。

    法堂

    大雄宝殿と称し、佐々木氏頼によって創建。明応元年(1492)、永禄19年(1563)の兵火によって失われたが、寛永19年(1642)第79代空子禅師が再建された。しかし享保9年(1724)の火災により再び焼失。享保13年(1728)第104代朴宗禅師が再建されたの が現在の建物である。正面には後水尾天皇ご寄進の釈迦、迦葉、阿難の三尊像が安置されている。

    禅堂

    他の堂と同様、佐々木氏頼により創建されたが、たび重なる火災により焼失。以後法堂を道場としていたが、昭和3年(1928)4月開祖寂室禅師に正燈国師の称号を送られたのを記念して、 鳳禅師が禅堂再建を発願、川上貞子の支援を得て昭和8年(1933)4月に再建された。

    経堂

    応永11年(1404)に創建。蘭窓元香禅師が明国に渡航し太宗皇帝より黄金の鉢 盂と一切経を賜り、帰国後本山に献納された。しかし兵火により経堂は焼失、経本は散逸した。弘治元年(1555)妙道禅師によって再建されたが、永禄6年(1563)の火災にかかり焼亡した。現在の建物は延宝4年(1676)第86代南嶺禅師のときに再建されたものである。

    標月亭

    含空院の西南にあり、音無川の清流が望め、一面の苔庭に新緑や紅葉が映え、美しい。現在の標月亭は昭和10年(1935)に改築されたものである。

    含空院

    正燈国師の塔庵として永和3年(1377)一渓純庵主のとき、考槃庵の名で建立。応永21年(1414)8月将軍足利義持公が来山、名を含空院と改め第3代松嶺禅師に額を寄進された。当時の建物は永禄6年(1563)の兵火で焼失。正保4年(1647)第81代如雪文 巌禅師によって再興されて以来、歴代住持の住居となっている。

    開山お手植の楓樹

    開山堂の前に、美しい彩りを見せる楓。開祖正燈国師自ら手植された樹齢数百年ともいわれる霊楓であったが、現在のものはその二世である。毎年11月になると紅葉し、参拝者の目を楽しませる。

    開山堂

    開山堂は大寂塔と称し、永和3年(1377)一渓禅師が開祖寂室禅師の高徳を追崇し創建された。永禄6年(1563)の兵火にかかり灰燼となったが、万治元年(1658)中宮東福門院のこ寄進により再建され、享保9年(1724)再び焼失したが、井伊直惟公が能舞台を寄進され今日に至っている。毎年10月1日は派内の僧が登山し、報恩謝徳の 開山忌法要が行われる。

    瑞石

    方丈(本堂)の東にあり、本尊世継観世音菩薩が出現されたといわれる霊石で、山号の起源となっている。その後方に芭蕉の句碑(こんにゃくのさしみもすこし梅の花)が建っている。

    交通案内

    所在地

    〒527-0212 滋賀県東近江市永源寺高野町41

    アクセス

    JR琵琶湖線「近江八幡」駅から近江鉄道乗り換え、「八日市」駅にて近江バス「永源寺車庫」行き「永源寺前」下車、徒歩5分。