各派のご本山

摩頂山 国泰寺まちょうざん こくたいじ

    歴史・開山

    当寺は臨済宗国泰寺派の総本山である。慈雲妙意(清泉禅師慧日聖光国師)を開山とする。
    慈雲妙意は、はじめ、当寺南方の二上山中の草庵で独り坐禅に励んでいたが、たまたま、行脚中の孤峰覚明のすゝめにより、紀伊由良の興国寺の法燈国師に参じて豁然大悟、その印記を受けた。慈雲、時に24才。後、再び、二上山へ帰り聖胎長養。正安年間(1300年頃)摩項山東松寺を創開。その禅風を慕って全国から集る雲水、その数を知らず。其の後、後醍醐天皇の帰依を受け、嘉暦2年(1327)には『清泉禅師』の号を賜り、翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王萬年禅寺』の勅額を下賜され、東松寺を改めて国泰寺と称すると同時に、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となった。
    更に、北朝の光明天皇も慈雲妙意に深く帰依され、全国に安国寺を建立された際には、当寺をもって、越中国の安国寺と定められ、将軍足利尊氏も尊崇の念を表し、伽藍の修理、土地の寄進などをした。貞和元年(1345年)6月3日、慈雲は『天に月あり、地に泉あり』の末後の句を残して、72才で示寂。光明天皇より「慧日聖光国師』の論号を受けた。

    その後、守護代神保氏の崇信を得ていたが、応仁(1470頃)から天文(1550頃)年間にかけての戦乱、特に上杉勢の越中侵攻によって当寺は荒廃した。しかし、雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興し、天正年間(1580頃)には二上山より現在地に移っていたようである。江戸時代に入り貞亨3年(1686)には現在の大方丈が建立され、将軍綱吉は当寺をもって法燈派総本山とし、亨保年間(1720頃)には萬壑和尚によって伽藍の大整備が行なわれ、(現在の法堂は当時のもの)ほゞ現在の形になった。明治維新になると排仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門両和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めた。また、日本を代表する思想家西田幾多郎や鈴木大拙が、若き日に、雪門に参じたことはあまり知られていない事実である。昭和11年には現在の庫裡を再建、42年に観音堂の建立、49年には月泉庭並に龍渕池(放生池)が完成、更に50年に台所。宿泊所を増築し現在の風趣を呈するに至った。
    今日も北鎮第一禅刹の名に背かず、雨・雪安居の禅堂規矩を遵守しながら、大衆のために禅堂を開放して団体の坐禅、個人の指導にも一山をあげて努めている。参禅を希望する者、聞法を願う人はお申し出下さい。

    宝物・伽藍

    後醍醐・後村上・光明・後奈良天皇の御宸筆

    後醍醐天皇勅彫肖像

    肉付払子

    霊芝天然如意(無門慧開禅師愛用の品と言う)

    山岡鉄舟の屏風

    月泉庭

    月泉庭・龍渕池は京都の小川寿一氏の名作。石は開山国師ゆかりの二上山の砂岩。月泉庭中央の巨石は約42トン。庭園の石としては恐らく日本一であろう。つくばいの青石は滋賀県の永源寺石。砂は京都の白川砂。

    交通案内

    所在地

    〒933-0133 富山県高岡市太田184

    アクセス

    JR北陸線「高岡」駅下車、守山経由氷見行バス「国泰寺前」下車、徒歩10分。