概略・歴史
天龍寺は、京都の観光地・嵐山の、桂川中ノ島から渡月橋を渡って北へ向かう通りに面して門を構える。嵐山・亀山を借景に境内が広がる。観光名所の渡月橋や天龍寺北側の亀山公園なども、かつては天龍寺の境内地であったという。
天龍寺の開基は足利尊氏である。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御されたが、その菩提を弔うため、夢窓国師(夢窓疎石。以下国師と記す)を開山に迎えて、光厳上皇の院宣を受けて開創された。
康永4年(1345)秋、後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。初め暦応資聖禅寺と号したが、比叡山が暦応の年号を寺号とすることに反対し、抗議したため、天龍資聖禅寺と改めた。
天龍寺の地は、檀林皇后が創建した檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、建長年中に後嵯峨上皇が新たに仙洞御所を造営し、次に亀山上皇が仮御所としていた地である。暦応4年(1341)7月、(地曳祭)を行い、国師や尊氏が自ら土を担いで造営を手伝う儀式が行われた。
足利尊氏は、天龍寺造営のために備後国、日向国、阿波国、山城国などの土地を寄進し、光厳上皇も丹波国弓削庄を施入している。しかし造営の資金には足りず、それを補うため、尊氏の弟直義は国師と相談し、元寇以来絶えていた元との貿易を行い、天龍寺造営の資金に充てる計画を立てた。いわゆる天龍寺船の派遣である。国師は、博多の商人至本を綱司に推挙し、至本は、「商売の好悪」にかかわらず五千貫を納める約束をし、一方幕府は、この船を当時瀬戸内海に横行していた海賊などから保護する責任を負った。
こうして、康永元年(1342)には天龍寺は五山の第二位に位置づけられ、翌2年には仏殿、法堂、山門などが完成し、3年には霊庇廟も落成した。この完成により、翌康永4年(1345)8月に、光厳上皇と光明天皇の臨幸を仰いで、落慶法要と後醍醐天皇七回忌法要を行おうとした。しかしこれを見た延暦寺の僧侶が妬み、国師の流罪と天龍寺の破却を強訴したため、上皇と天皇は法要当日の行幸を取りやめ、翌日に行幸にて国師の説法を聴聞したという。
この法要にあたり、朝廷からは金襴衣、紫袍、錦帛、水晶念珠などが下賜され、尊氏からは銅銭三百万、鞍馬三十頭が施入された。さらに観応2年(1351)、国師は千人収容可能な広大な僧堂を造営している。尊氏は子孫一族家人など、末代に至るまで天龍寺への帰依の志が変わることがないことを誓い、また光厳、光明の両院など、朝廷からも天龍寺は篤い帰依を受けている。
天龍寺の五山十刹の位置づけは、創建当初の五山第二位に始まる。次に至徳3年(1386)に京都五山第一位となり、鎌倉建長寺と同格と位置づけられたが、応永8年(1401)の改定では相国寺を第一位とし、天龍寺は第二位(鎌倉円覚寺と同格)に格下げされた。しかし応永17年(1410)にはまた第一位に戻っている。
天龍寺は創建後、たびたび火災に遭っている。まず延文3年(1358)、雲居庵などを除いて焼失したため、春屋妙葩が再建し、貞治6年(1367)の火災後も妙葩が請われて修復している。応安6年(1373)にもまた炎上し、翌年再建を始めている。さら康暦2年(1380)には公文書の多くが焼失する火災に遭っている。文安四年(1447)、雲居庵を除いてことごとく焼失。応仁2年(1468)には、応仁の乱の戦火に巻き込まれ、焼失している。
この応仁の乱以後、しばらくは火災も少なくなり、復興事業が進められている。しかし、数度にわたる火災の被害は甚大で、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまでは復興はままならなかったようである。秀吉は嵯峨、北山など一七二〇石の朱印を天龍寺に寄進し、この寄進によって本格的な再建が進められた。さらに慶長19年(1614)、元和元年(1615)、寛永10年(1633)にも朱印が寄進されている。
その後文化12年(1815)になって火災に遭い、翌年から再建が始まるが、元治元年(1864)七月には「蛤御門の変」で長州兵の陣所となり、天龍寺は兵火のためにまたも焼けている。
明治に入り、9年9月、他の臨済宗各派と共に独立して天龍寺派を公称し、天龍寺はその大本山となった。また、上地令を受けて、境内地など所有地が上地されている。そんな中、復興事業も始まり、明治32年に禅堂が移築、改修されて法堂となり、大方丈、庫裡が再建され、大正13年に小方丈、昭和9年に多宝殿などが再建された。
開山
夢窓疎石
建治元年(1275)、伊勢国(三重県)に生まれた。父は源氏の流れをくみ宇多天皇の九世の孫という東条朝綱、母は平氏の出身である。国師四歳の時、一家は甲斐国(山梨県)に移住したが、この年の8月に母を亡くしている。しかし、母によって信仰的に薫育された国師は、仏像を見れば拝み、お経を唱えていたという。弘安6年(1283)九歳の国師は父に連れられて平塩山の空阿を訪れた。国師は空阿のもとで仏典や孔子・老子の典籍などを学び、10歳の時には七日で「法華経」を読誦して母の冥福を祈り、人々はその非凡さを嘆じた。
正応五年(1292)18歳で奈良に行き、東大寺戒壇院の慈観律師に従って受戒した。その後さらに遊学してより深く仏教の教学を学んだが、天台教学の講師が死に臨んで苦しみ、醜態をさらすのを見て、学問的研究だけでは生死の問題を解決することはできないと悟り、禅の教えに傾倒していった。そんなある日、国師は夢の中で中国の疎山・石頭を訪れ、石頭のお寺で出会った僧から達磨大師の像を与えられる。目覚めた国師は自分が禅宗に縁があると考え疎山・石頭から一文字ずつとって疎石と名乗り、夢の縁から夢窓と号したという。
20歳になった国師は京都に上がり、建仁寺の無隠円範について禅の修行に入った。翌年10月には鎌倉にて高僧に歴参し、いずれの師にもその聡明さを賞賛された。永仁5年(1297)京都建仁寺の無隠に再び侍すが、8月、一山一寧が来日すると、すぐに教えを受けている。正安元年(1299)、一山が鎌倉建長寺に住することになると、国師も従い、諸家の語録を学び修行を重ねていった。
正安2年(1300)秋、国師は出羽国に旧知の人を訪ねようとしたが、その人の訃報を聞き、途中にある松島寺にとどまった。当時この地に天台止観を理路整然と講じる一人の僧がおり、国師もこれを聴講して悟るところがあったが、それはそれまでに聞き学んだ教えが開発されただけで、真実の悟りはやはり禅によるべきであると考えるに至った。
嘉元3年(1305)、国師は常陸国臼庭に行き、小庵で坐禅三昧の生活を始めた。ある夜、国師は長時間の坐禅から立ち上がり壁にもたれようとしたが、暗かったために壁のないところにもたれてしまい転倒し、その拍子にすっきりと悟りを得ることができた。すぐに国師は鎌倉の高峰顕日のもとへ向かい悟ったところを提示すると、顕日は「達磨の意をあなたは得た。よく護持するように」と讃えたという。
正中2年(1325)春、後醍醐天皇が京都南禅寺の住持に国師を招くが翌年には鎌倉へ赴きその後2年間円覚寺に住した。長年荒廃していた円覚寺は国師によって復興している。元弘3年(1333)後醍醐天皇の詔により京都臨川寺開山、また南禅寺住持に再任され建武2年(1335)には夢窓国師の号を下賜されるなど、天皇の国師への崇敬はますます深くなっていった。この頃、足利尊氏が国師に対して弟子の礼を執り、国師は尊氏を悔悟させるため怨親平等を説き、安国寺利生塔の建立を勧めた。
暦応2年(1339)8月に後醍醐天皇が崩じると、天龍寺の開創事業が始まり、康永4年(1345)には後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。観応2年(1351)には僧堂が落成し、国師は一度は雲居庵に退いたが弟子の教化に当たっている。同年8月の後醍醐天皇十三回忌法要の翌日、国師は病の兆候を見せて臨川寺に退去し、9月30日、衆生に親しく別れを告げて示寂した。77才であった。国師の教化を受けた者は13045人いたと伝わり、朝廷からも篤く帰依され、歴朝は国師の徳を尊び、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円の七つの国師号を下賜している。
伽藍
勅使門
江戸期の火災を免れた寛永年間(1624~1644)のものとされ、天龍寺では最古の建築物。細部によく桃山様式を伝える
法堂
江戸時代の火災で焼失した法堂の代わりに、明治時代に旧坐禅堂(選仏場)を移築したもの。江戸時代中期頃の建築と見られる。正面須弥檀中央には、釈迦・文殊・普賢の釈迦三尊像が祀られる。
方丈
法堂の奥に大方丈、その西側に小方丈(書院)が連なる。大方丈は明治三十二年、小方丈は大正十三年の建築。
後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵
庫裡の北側に南面して並ぶ。それぞれに唐門があり、その奥に法華堂が建てられ、両天皇が祀られている。
多宝殿
昭和九年に再建された後醍醐天皇を祀る建物。小方丈から長い廊下でつながる。鎌倉時代の様式を取り入れ、当時を偲ばせる。
曹源池(特別史蹟名勝)
開山夢窓疎石の作庭になる、枯山水の滝の石組みを含む廻遊式庭園。池の前庭には州浜形の汀や島を配し、嵐山や亀山を借景として取り入れている。白砂と緑が鮮やかである。
釈迦如来像(重要文化財)
大方丈に安置される非常に穏やかなお顔をされた釈迦如来像である。浅く整えられた衣文や均整の取れたお姿から、平安時代後期の典型的な作風が見て取れる。制作は天龍寺の創建よりはるかに古く、今では台座・光背も失われ、当初からの伝来は不明。檜材の寄木造、彫眼、漆箔(しっぱく)仕上げとするが、現状は剥落し古色を呈している。
夢窓国師画像(重要文化財)
塔頭妙智院所蔵の開山夢窓疎石の頂相。無等周位筆。疎石自信の賛が入っている。貞和五年(1349)頃に天龍寺第二世無極志玄に与えられたものと言われる。上半身像で、顔の表情がこまやかに描かれている。
夢窓国師像
疎石の塑像。彫刻として現存している疎石の像は、この像を含めて五体のみである。細かい表情や彩色など、生前の姿を彷彿とさせる像である。この像は臨川寺開山堂に祀られている。
足利尊氏像
開基足利尊氏の束帯姿を写した木彫坐像。彩色は剥落しているが、袖が左右に大きく広がった表情豊かな像である。
観世音菩薩図(重要文化財)
中国唐時代の画家呉道子の作と伝わる観音図。現在では、色違いなどから南宋時代に唐画の手法を使って描かれたものとされている。
雲門大師図・清涼法眼禅師図(重要文化財)
禅宗五派のうちの二派である雲門宗と法眼宗の祖師を描いたもの。南宋中期の画家馬遠の筆と伝わる。
その他
天龍寺境内は1994年12月にユネスコから世界文化遺産に指定されている。
交通案内
- 所在地
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〒616-8385 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
- 電話
- 075-881-1235
- アクセス
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JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅下車、徒歩10分。