概略・歴史
東福寺は、京都東山月輪山麓に、渓谷美を抱く広々とした寺域を擁しています。
臨済宗東福寺派の大本山として、また、京都五山の一つとして750年の法灯を連綿としてつたえ、360余ヶ寺の末寺を統括し信仰の中心となっています。
東山を背景に国宝三門を始め重要文化財に指定されている大伽藍が甍を並べ、その壮観は古くから東福寺の伽藍面といわれています。
慧日山東福寺は摂政関白九條道家公の「浩基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」との発願によって創建された大道場です。南都東大寺・興福寺に比肩する大寺院ということで、両寺から各一字をとって東福寺と名付けられました。それは嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成し、時の仏殿本尊の釈迦仏像は15米、左右の観音弥勒両菩薩像は7.5米で、新大仏寺と呼ばれていました。
工事半ばの寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが、元応元年(1319)建武元年(1334)延元元年(1336)と相次ぐ火災の為に大部分を焼失しました。
延元元年8月、被災後4ヶ月目には復興に着手し、貞和3年(1346)6月には前関白一條経通により仏殿の上棟が行われ、火災後20余年を経て再建され偉容を取り戻しました。その後、足利義持、豊臣秀吉、徳川家康らによって保護修理が加えられ、永く京都最大の禅苑としての面目を伝えましたが、明治14年12月に仏殿、法堂、方丈、庫裡を焼失しました。
明治23年に方丈、同43年に庫裡を再建し、大正6年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着手して昭和9年4月に落成、鎌倉、室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築の精粋を発揮しています。
開山
円爾弁円(聖一国師)
東福寺開山聖一国師(円爾弁円)は建仁2年(1202)10月15日駿河国(静岡県)栃沢の米澤家(現存)に生まれました。三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、後、栄西の高弟行勇・栄朝ついて禅戒を受けました。
嘉貞元年(1235)33歳で宋に渡り杭州径山万寿寺の無準師範(佛鑑禅師)の膝下にあること六年、無準禅師の法を嗣ぎ、仁治2年(1241)7月帰朝されました。
先ず、筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き、寛元元年(1243)には九條道家に迎えられて禅観密戒を授けました。次いで東福寺開山に仰がれ、山内の普門院を贈られて常住しました。その後、後嵯峨天皇に『宗鏡録』を進講し、また後深草・亀山両天皇も菩薩戒を授ける等、朝廷・幕府の帰信を次第に深めていかれました。
建仁寺の再建を委ねられ入寺、岡崎尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺等の大寺院を監閲し再建復興にも尽力されました。更に延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので、学徳は国中に讃えられました。
弘安3年(1280)10月17日79歳で入定、「利生方便 七十九年 欲知端的 佛祖不傳」の遺偈を残します。これは現存する遺偈としては我国最古のものです。
応長元年(1311)花園天皇より聖一国師と諡されたが、我が国での国師号の初例です。またその後、安永9年(1780)後桃圓天皇より大寶鑑廣照国師と加諡され、さらに昭和5年(1930)「神光」と加号されました。
国師は宋より帰朝の際、一千余の典籍を持ち帰り文教の興隆に多大の貢献をされました。又水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し、静岡茶の原種を伝え、博多織の創製、博多焼(博多人形)、博多素麺、博多祇園山笠、栴檀の木、通天楓、伏見人形の将来等、その遺芳は枚挙に遑がありません。また国師の高弟東福寺第三世大明国師(無関普門)は南禅寺の開山に迎えられ、国師の偉徳を更に顕現しました。
伽藍
禅堂(重要文化財)室町応永22年
南北朝時代貞和3年(1347)建立、最古最大の道場。「選仏場」の扁額は無準禅師筆。(桁行七間粱間四間重裳階附切妻造本瓦葺)
六波羅門(重要文化財)
平家六波羅第の遺構を移築。(棟門本瓦葺)
月下門(重要文化財)
月華門とも。鎌倉時代。文永5年(1268)一條実経が常楽庵を建てた時、亀山法王に下賜されたといい、今は普門院の総門となっている。(四脚門切妻造檜皮葺)
偃月橋(重要文化財)
桃山時代、慶長8年(1603)建築の木造廊橋で貴重。廊桁行11間、梁間1間。(切妻造桟瓦葺)
仁王門(重要文化財)
八脚門で南北朝時代明徳2年(1391)建築。万寿寺の元の正門。(桃山慶長2年八脚門切妻造本瓦葺)
唐門
唐門は屋根が唐破風になっている門のことで中国式という意味ではない。仏殿と同じく芝増上寺の霊屋の門を移築したとされる。(府登録文化財)
三門(国宝)
室町時代初期の建立といわれ、日本最古の三門で国宝に指定されている。足利義持の「玅雲閣」の扁額を掲げ、楼上に宝冠釈迦如来・月蓋長者・善財童子・十六羅漢像を安置し、天井には画聖兆殿司、寒殿司による雲竜・飛天・迦陵頻伽等の彩画がなされている。(五間三戸二重門入母屋造両山廊附)
開山堂(重要文化財)
聖一国師入定の地。塔所。九條道家が国師の為に普門寺を建て更に一條実経が常楽庵を贈った。上層伝衣閣に三国伝来の布袋和尚像を安置し伏見人形の源となっている。(常楽庵庫裏他七棟)平成9年重文指定
東司(重要文化財)
室町時代初期の建物。一重切妻造本瓦葺で百雪隠ともいう。
浴室(重要文化財)
室町時代の建築で内部は蒸風呂形式である。(一重正面入母屋造背面切妻造本瓦葺)
鐘楼(重要文化財)
〈万寿寺鐘楼〉吼月楼、室町中期以前の建築。3間2間・袴腰付鐘楼門。
経蔵(府指定文化財)寛政5年(1793)
宋僧道潜筆の「輪転蔵」の扁額を掲げ、宋版一切経を所蔵。前に善傳慧大士及普成・普賢を安置す。現在は光明寳殿に安置。
愛染堂(重要文化財)
丹塗りの八角円堂。南北朝時代の建築。昭和12年万寿寺より移築された。(宝形造こけら葺)
方丈・庫裡(府登録文化財)
安国寺恵瓊によって建てられた元の方丈は、明治14年に焼失し、現在のは明治23年再建。唐門は同42年に造営、庫裡は翌年に再建された。唐門と庫裡は昭憲皇太后の恩賜建築である。
方丈庭園(本坊庭園=国指定名勝)
方丈を中心に東西南北の四庭からなり釈迦成道の八相に因んで「八相庭」と称する。昭和造園の権威重森三玲氏の作庭南庭は禅院式枯山水、東部に北斗七星、西に大市松模様、北に小市松模様を表し、鎌倉期の手法を用いている。
本堂(仏殿兼法堂)府登録文化財
昭和9年4月17日に落慶した重層入母屋造りの大建築で天井の龍は堂本印象画伯の筆。用材は台湾阿里山檜、柱に日蓮宗門徒の寄進したものがあるが、これは聖一国師の恩に報いて日蓮上人が寄進した前例に従ったもの。
十三重石塔(重要文化財)
南北朝時代の典型的な石造十三重塔である。九條道家が当寺創立祈願の為造立したもの。4、5米。
通 天 橋(府登録文化財)天授6年建立、文政12年改架
普明国師(春屋妙葩)の扁額を掲げ開山堂への歩廊として架設されているが、昭和34年8月崩壊、36年11月改架された。両辺は楓樹が多く、通天の三葉楓は聖一国師が宋国から将来したといわれている。渓谷は洗玉澗という。長さ25、77米、幅3、45米。
龍吟庵方丈(国宝)
室町時代。単層・入母屋・柿葺で現存最古の方丈建築とされている。正面中央は両開き双折桟唐戸、左右柱間は蔀戸(外側)・明障子(内側)とし、足利義満筆の「龍吟庵」の額を掲げる。内部は棹縁天井・両開き板唐戸・遣戸等、書院造に寝殿造風の名残を多分に加える。又背後の開山堂正面入口上に義満筆の「霊光」及び「勅諡大明国師」の2面の扁額を掲げ、堂内に大明国師像(重文・鎌倉)を安置している。表門・庫裡は重要文化財。
その他
東福寺重宝中、国宝重要文化財に指定されているものは、建築の他に仏像23、絵画108、文書・典籍類260点がある。
交通案内
- 所在地
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〒605-0981 京都市東山区本町15丁目778
- アクセス
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JR奈良線・京阪電車「東福寺」駅下車、徒歩7分。
京都市バス「東福寺」下車。