行事活動報告

東福寺派 径山萬寿寺佛鑑塔参拝

はじめに

径山萬寿寺佛鑑塔 去る五月二十三日より二十九日まで、本山東福寺の開山・聖一国師の地の中国径山萬寿寺に、福島慶道管長猊下を団長、青木謙整宗務総長を副団長として、総勢一二〇名にて訪中し、参拝いたしました。今回は、聖一国師の修行の師である佛鑑禅師のお墓であります佛鑑塔の遷座開眼法要の厳修を目的としたものです。

東福寺派教学部長 亀山琢道

「今年も径山参拝を果す」              東福寺管長  福島 慶道

 第十一次東福寺派訪中団は、今年は五月二十三日より二十九日の七日間で径山参拝を行なった。一行は一二〇人であった。昨年から関西空港―杭州便が運航されているので、今年は上海を経由することなく、直接杭州に入る。
 中国側の希望もあって、初日の夕食が日中合同夕食会となる。浙江省宗教民族委員会荊越生副主任、杭州市宗教局、趙一新局長、杭州市仏教協会 光泉会長、定本副会長初め一五人が中国側から出席された。残念ながら径山復興の大黒柱であった前杭州市仏教協会会長の兪先生は体調不良のため欠席された。中国側はこぞって東福寺派の径山参拝を喜んでくれ、熱烈歓迎をしてくれた。夕食の宴は、中国側の「乾杯先生」荊副主任と日本側の「乾杯和尚」青木総長とで大いに盛り上がり、意義ある友好交流の夕食会とはなった。
 とくに今年はご開山聖一国師の師、佛鑑禅師のお墓が旧来の墓地で埋没していたのを、径山の境内地へ写すこととなった。その場所は、径山萬寿寺総門の外の閑静な竹林内にあり、同じく二年前遷座した虚堂塔よりはやや離れたところで、有名な蘇東坡、洗硯池の更に奥に位置する。
行道 二日目五月二十四日、総長に団長車、一号車より五号車の順で杭州を出発、約一時間半後径山山頂に到着。当日の行事はまず大雄宝殿での日中合同諷経より始まる。今回は光泉会長の引率で杭州仏学院の院生一〇〇名が随喜出頭した。若仏学院生の真摯な態度は殊に印象的であった。引き続き日本側の諷経となり、先ず本派第三教区長興寺和尚の永頭で東福協会会員による奉詠、続いて日本より持参のいぶきによる東福寺未生流の献華がなされた。引き続いて青木総長の代拜のあと私が偈頌を唱えた。因みに偈頌は

 看々径山萬寿境  看よ看よ、径山萬寿の境。
 拜登壱百有余員  拜登す、壱百有余員。
 白雲深處帰郷感  白雲深き處、郷に帰えるの感。
 佛鑑可欽不滅禅  佛鑑欽う可し、不滅の禅。

 楞嚴行筒導、維那は庶務部長退耕和尚。先住退耕和尚直伝の名調子であった。昭和五十九年三月東福寺派有志和尚の初めての径山拜登で、鉄の大香炉一基のみの廃墟の径山で先住退耕和尚は音吐朗々と維那をされ、「径山で維那をすることが自分の生涯の夢であった。」と言われ、非常に満足をしめされたことを思いおこした。その後、一同は佛鑑塔前へ移動し新建立の佛鑑塔に向って、厳粛に大悲呪を唱える。そこでの私の偈頌は以下の如くである。

  聖地寥々爽気昌  聖地寥々として、爽気昌んなり。
  眼前新塔露堂々  眼前の新塔、露堂々。
  幸哉佛鑑径山裡  幸いなる哉、佛鑑径山の裡。
  可讃法燈万古芳  讃ず可し、法燈万古芳ばし。

佛鑑塔前 法要 眼前に佛鑑禅師の新燈を親しく仰いでの諷経は感動的であり、歴史的に意義ある拜塔となった。
 二年前、径山第四〇世虚堂智愚禅師の墓塔が遷座され、その節兪先生は「来年は早速、佛鑑塔を写したいと思います。」とその抱負を語られた。径山復興に関しては、兪先生の功績によるところ甚だ大であって、兪先生の熱意無しには径山復興は実現しなかったと思う。その兪先生も八〇歳のご高齢であり、加えて持病の心臓病も手伝って昨年浙江省仏教協会副会長並に、杭州市仏教協会会長を勇退された。兪先生の偉大なる功績に満腔の敬意を表したい。今後は末長くご長寿いただき、日中友好親善の深まりを見届けて頂きたいと念願する。今後は杭州市宗教局局長趙一新先生並に、杭州市仏教協会会長光泉法師が中心となって径山復興の仕上げを達成してくれるものと期待する。老朋友の趙一新先生はなかなかの好人物であり、すぐれたアイデアマンでもある。一方、光泉法師は若手のリーダーであり、その活躍が大いに期待されている。
 行事終了後、萬寿寺の一堂で全員が昼食を頂いた。例の如く萬寿寺常住の方々によって作られた食事であるが、筍の料理は絶品であり、団員一同は美味しく頂戴する。同時に有名な径山茶も賞味する。七五〇年前聖一国師が将来されたお茶はこの径山茶であり、それを郷里の静岡県栃沢へ土産とされ、それが静岡茶の起源となる。一方、聖一国師より約五〇年早く、建仁寺ご開山栄西禅師の将来されたお茶は、浙江省天台県の「雲霧茶」であり、それが日本では宇治茶の起源となる。したがって日本では茶祖は栄西禅師と聖一国師と二人居られることになる。
 径山は雨の多い土地柄であり、杭州市が晴天でも径山に登ると雨のことがよくある。平成二年五月径山萬寿寺起工式の折も大変な豪雨であった。山頂のテント内でずぶ濡れになって諷経したことを思いおこす。「その昔、径山には大龍が住んでいたが、萬寿寺が創建されるに当り、その大龍は天に昇る。したがって萬寿寺に何かある時には必ずその大龍が雨とともに径山に降りてくる。今日のこの大雨は瑞祥です」とは、兪先生の言であった。
 六年前、径山にはめずらしく快晴であったので訪中団二六〇人のうち足に自身のある者約二〇〇人は旧参道を徒歩で降りた。今回も幸い快晴であったので約八〇人が徒歩で下山を決行した。有難いことに、七五〇年前以来の旧参道は残っており、平成元年別ルートの復興道路(車道)建設の折に旧参道も整備された。旧参道は細い山道であり、そこを八〇人が一列縦隊で下山となる。私は今年は体調不良のため、車で下山をし、「径山古径」の看板の有る径山村の旧参道上り口で一行を迎えることにした。会下の清明富好庵副住職が驚くべき早さで一番に降りてきた。きっと彼にとっては一生の思い出となろう。次々下山の団員を迎え、一人一人と握手を交わし、その様子をカメラマン柴田氏が一人ももれなく撮影をしてくれた。
楓の記念植樹 東福寺の通天橋の「もみじ」は有名である。これは七五〇年前聖一国師ご帰朝の折、浙江省の「もみじ」の苗を持ち帰ったことに始まる。今、通天橋下の洗玉澗の谷間に約二千本の「もみじ」があり、そのうち五十本ぐらいは中国の三つ葉楓が残っている。今年はそのお返しの意味もあって、日本の楓の苗二十本を持参し、記念植樹をした。毎年の径山参拝で、その成長ぶりを見るのが楽しみであろう。
 今年も感動的な径山参拝であった。竹林と茶畑の続く径山村をあとにして一行は杭州市へ向かった。杭州龍井茶生産直売所に立ちより龍井茶を味わった後、一行は無事ホテルへ帰着した。毎回の事であるが径山参拝の後は溢れんばかりの感激と満足感で、疲れはいささかも感じない。その日の夕食はAコースBコースのお別れパーティーであり、大いに盛り上がり早くも次回の径山参拝を誓いあった。
 径山参拝は毎年は東福寺派有志和尚並に、東福僧堂雲水を中心とした約三〇名の訪中団である。もちろん一般在家の日ともこれに自由に参加できる。次回の大訪中団による径山参拝は四、五年先になろう。多数の参加を期待する。
 第三日目五月二十五日朝、Aコースは四川省蛾眉山に向かい、Bコースは日本へ帰国すべく、両コースの一行は日本での再会を期して名残りを惜しみつつ別行動となる。
 今年も佛天のご加護を得て、感動的な径山参拝を無事に果たすことができた。法喜無量法悦無窮なり。再見。