鈴木大拙の世界シリーズ〔17〕
(出典:書き下ろし)
直近の中東危機やウクライナ情勢といい、コロナ感染やLGBTQ理解といい、ジャニーズ事務所の性加害問題といい、軽々しく論じられない課題を私たちは、「只今」突きつけられております。
是非を問うことのできない行き詰まりを感じた時、腹蔵なく意見を伺えた、今は亡き先達・知人の顔を思い出します。
「彼なら、今の世相をどう言ってのけたのだろう。」
そのように東西の知識人から、今もなお、識見を仰がれている仏教学者が鈴木大拙です。
明治維新によって近代化に走り出した日本は、現実とのギャップやジレンマに陥ります。化学技術はたしかに西洋が勝っているが、東洋道徳は優位性を保っているのだと日本人は誇示していました。しかし、西洋技術の裏付けが、その社会生活であり精神文化であることを突き付けられるのであります。
西洋の社会生活・精神文化の日本導入が始まりをみせた頃に鈴木大拙は、明治三年(1870年)石川県金沢市に出生しました。
東京帝国大学に学び、鎌倉の円覚寺にて今北洪川・釈宗演老師に参禅。明治三十年 (1897)に渡米して以来、日本の禅文化を海外に広めました。大拙が渡米して一年ほど経った頃の出来事として、
「ひじ、外に曲がらず(臂膊不向外曲)」
の禅語に思い到り、ハッと深い気付きを得たと語られたものがあります。海外生活する上での不都合・不自由を大拙が、どのように受け止めたかを窺い知れるような逸話です。
大拙の帰国は明治四十二年(1909年)で約12年後のことになります。
海外に日本の禅思想を広めた大拙の業績の中で、特に名高いのが「即非の論理」です。大拙はこれこそ「禅」の論理だとし、公式化しております。
AはAだというのは、
AはAでない、
ゆえに、AはAである。
(鈴木大拙選集第一巻『日本的霊性』より)
生きとし生けるもの、私たちひとりひとり、誰一人として、何不自由なく生きていくことなどできはしません。自分の都合よく生きていけないのが、この世の中なのです。ぶつかってくる不都合の度毎に、ゲームをするかのように、リセットすることも簡単にはいきません。不都合に起きてしまった、戦争や病や人間関係を遡って取り返すことはできないのです。その中で人間だけが、不自由・不都合にぶつかった時、否定しながら、受け止めて前に進むことができるのではないでしょうか。
第二次大戦の結果、焦土と化した日本が再び立ち上がり、先進国への道筋を掴んだ昭和四十一年(1966年)、大拙は95歳の生涯を閉じます。この一昨年には高度経済成長と戦後復興の象徴とされる東京オリンピックが開催されています。
先進国の仲間入りを果たした日本の軌跡と、大拙の生涯は重なり合います。
東洋道徳の優位性を説くだけでは、近代化を成し遂げることはできないと知り、愕然とし否定しつつも西洋文化を受け入れ、艱難辛苦・紆余曲折を経て漸く先進国に名を連ねた日本。西洋文化導入に、日本人は無論危機感を覚えたでしょう。であるからこそ、どうなるにしろ染まることのない日本の精神文化を明かにしなければならなかったと感じます。
現実に第二次大戦で焼け野原になった日本は、戦後類を見ない経済大国へと覚醒しました。経済成長の中、環境汚染や公害という悲劇も起こりましたが、その土台の上に今の日本があります。一見相反する二つの物事が、実は、一体となって共存しているのだと導く「即非の論理」そのものではないでしょうか。
大拙が説いた「即非の論理」すなわち「禅」の論理が、坐禅を通じた上での日常生活の場で、答えの出ない諸問題を乗り越える大きな働きを生むであろうことを記憶しなければなりません。