鈴木大拙の世界シリーズ〔16〕
(出典:書き下ろし)
鈴木大拙博士の著作を集めた選集に収められた、初祖菩提達磨の『無心論』に関する一文があることをご存じの方も多いのではないでしょうか。鈴木博士が中国からの依頼で、鑑定をされた『無心論』は敦煌から出てきた古文書らしいのですが、中国の専門家も達磨大師の作であれば、中国国内外に同じ古文書が今まで一冊も発見されておらず、後世の偽作だろうと、あまり問題にしなかったようであります。念のため、日本の禅学の権威である鈴木博士に鑑定を依頼した経過のようです。鈴木博士は古文書の紙質が達磨大師の遷化直後の時代の紙質であることと、中の文章で使われている表現や熟語が時代性特有の特徴を持っているところから、この『無心論』を 本物と鑑定されました。
後世の祖師方の語録の型式ではなくて、達磨大師とお弟子様方の問答のやり取りが素朴に綴られた内容でした。達磨大師は推定八十歳ほどで中国へ渡海して来られ、中国語がさっぱり判らなかった筈なのに、どうして問答ができたのか疑問が出ると存じます。これはインドにおられた時から、中国人のお弟子様がお付きになり、この方が通訳をすることで、渡海後にできた中国人のお弟子様方との意思疎通も十分できたようです。
達磨大師と言えば「面壁九年」とされて、あまりお弟子様との会話が無いイメージですが、この『無心論』の中の達磨大師は饒舌で、お弟子様方の質問にいちいちご親切に回答しておられる様子が伺われます。この問答集の中で、達磨大師は「無心」という言葉を教えられ、仏法の核心はこの「無心」であると教えておいでになります。
「無心」とは隋や唐の祖師方が強調された言葉と理解されているお方が多いと存じますが、この『無心論』の発見と鈴木博士のご努力により、達磨大師が強調され、通訳のお弟子様が「無心」と翻訳されて、隋、唐の祖師方ヘ伝授された言葉であると理解致しました。
鈴木博士は隋、唐の中国語よりも古い漢文を現代の日本語に翻訳し、『無心論』のやり取りが判るようにして、選集に収録されておりますので、是非ご一読ください。『無心論』が一冊のみ現存している事情は、その当時まだ印刷技術が無くて、貴重な文章は手書きで書き写すしか方法が無かったのだろうと記されておりました。
私は禅寺の住職の子として生まれ、学生生活を金沢で送りました。前田家の居城である尾山城の跡地に大学があり、お堀跡を挟んで向かい側に兼六園という名園があり、その隣接地に本多町という場所があります。加賀百万石の筆頭家老の本多家の屋敷が在った場所です。その一角に鈴木博士の実家が在りました。
鈴木家は代々本多家の待医をしてこられたお家だそうです。家老の家に待医とは思われるかも知れませんが、家老と雖も将軍家から付家老として前田家に明治維新まで筆頭家老を務めたので、地行は五万石を超え、小大名より、収入もあり、家来も沢山抱えていたようでございます。
その鈴木家の実家跡に「鈴木大拙記念館」が立っております。学生時代にはご縁がありませんでしたが、住職に就任しましてから、二十年に一度程度金沢を訪れ、鈴木大拙記念館に入館し、以後、鈴木博士の著作を折に触れて拝読するようになりました。金沢は鈴木博士のみならず、浄土真宗の本場でありますので、真宗学の高名な学者をはじめ、西田幾多郎博士(金沢の隣の宇ノ気町)等代表的な哲学者、宗教学者を輩出しております。藩政時代の培われた風土から、明治以降開花した大輪の花と受け止めております。余談になりましたがご容赦下さい。