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過去と現代の死生観

(出典:書き下ろし)

 ren_2309a_link.jpg大河ドラマを観ていますと、毎週のように人が死んでいきます。「死」の価値観が現代と大きく違うように思えます。今の世は有難いことに人が死ななくなりました。生きることが当たり前で「死」は「日常」からかけ離れた特別なものになっています。
 栄西によって日本に導入された臨済宗は、多くの武士達に受け入れられました。「今、この瞬間を生きる」という禅の教えは、常に「死」と隣り合わせであった武士達の生き様と重なり、気質に合っていたのでしょう。そこで「過去と現代の死生観」について考えてみたいと思います。

 東京大学の名誉教授である勝俣鎮夫先生の研究によりますと、日本語表現において、未来のことを「アト」過去のことを「サキ」と表現する場合、「後からやる」「後回しにする」と言った言葉は未来を表わし、「先程は」「先日は」と言った表現は過去を表わす言葉となります。逆に過去のことを「アト」、未来のことを「サキ」と表現することもあります。「先送り」や「先々のことを考えて」と言うと「サキ」は未来のことで「跡をたどる」と言うと「アト」は過去を表わす表現になるわけです。

 ところが戦国時代までは「サキ」は過去、「アト」は未来と決まっていたそうです。現代人は未来の方向を指差す時必ず前の方向を指しますが、戦国時代は背中の方を指差していました。江戸時代になって平和が訪れたことで人々は、「明日も同じように暮らしていくことができる。未来は制御可能である」という自信を得て「未来は私たちの前に広がっているのだ」という思いを持つようになったからではないかというのです。
 明日がやってくることは、今の世では当然のことです。しかし昔の武士達にとっては今を生きるしかなく、明日が来ることは特別なことであったわけです。大河ドラマの中で、毎週のように人が死んでしまうことは、何も特別なことではなく、「人が死ぬことは常」という当時の価値観なのでしょう。

 「生死事大、光陰可惜、無常迅速、時不待人」という禅の教えがあります。
 死は、いつ、どんな形でやってくるのか分からない代物です。だからこそどう生き、どう死を捉えるのかが重要であり、まだまだと思っている間に時間は過ぎ去ってゆく。この世は常に移り変わる、形あるものは壊れ命あるものは尽きる。時は人を待ってはくれない 時間を無駄にせず、しっかりと生きるのだ。ということを禅は強く諭しているのです。

 正受老人の「一日暮らし」という教えを思い起こします。
 人はとにかく一日を良く暮らせばその日は過ぎていく。決して一日をおろそかにしてはいけない。 今日の勤めを今日行うことが大切 どんなに苦しくても今日一日の辛抱と思えば耐えることができる どんなに調子が良いことがあっても、それにふけることもない。長い一生と思うとかえって大事なことを見失う。一生は今日一日今日一日を勤める他ない。
 大事なことは今日、ただ今の心であるという教えです。

 そう考えていきますと、今日の自分の年齢まで生きられたことは尊いと感じます。以前はそれだけの年月を生きられたことの有り難みを理解もせずに、たかだか数十年しか生きていないと思っていました。しかし一日を生きることの尊さが分かり、ようやく時の重みを感じるようになったのです。今日の自分の年齢まで生きられたということは、「とてつもない年月を生きてこられたのだ」という時の重み、時間の価値観が変わったのであります。
 忙しい現代人にとって一日なんてあっという間です。ひと月、一年であってもあっという間でしょう。しかし自分自身に残された時間がどれ程あるのかは分かりません。いつ死ぬのか分からないという意味では、私たちも昔の武士達とさほど変わらないわけです。だからこそ、残された時を大切に生きていきましょう。

「今日限り、今日限りの命ぞと、思いて今日のつとめをぞする」(道歌)

 今日一日も大切な一日です。おろそかにすることなく、勤めてまいりましょう。

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