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鈴木大拙の世界シリーズ〔15〕

(出典:書き下ろし)

ren_2308a_link.jpg 「願い」とは何でしょうか? ここでいう願いとは、もちろん世間一般的な意味のそれではなく、禅的境地である「無心」のそれを指しています。

 鈴木大拙は、著書『無心ということ』の中で、願いについて時間的視点から解釈を与え「成就することのない永遠の願いこそが本当の願いである」と言っています。これは逆説的であり、非常に面白い表現です。常識で考えると、成就することのない願いは無意義だからです。

 次に大拙は、いわゆる俗世間的な願いとして、

これが衣食住の世界の方からみると、本願はこんな風の祈りになる。すなわち何か面白いものが観たい、うまいものを食べたい、何か聞きたい、何か手に入れたいという祈りになる。現世利益的祈りと言ってよい。

という例を挙げ、それに対して、

本当の祈りというものは、永遠の祈りなので、いつといって成就するものではない。成就したということになるともはや祈りの生活はやめてしまう。願いは無尽でなくてはならぬ、どこかに停まってはならぬ。

と、説明します。

 俗世間的な願いには時間的な制限がある。つまり、その願いが叶ってしまえば、その願いはそこで終わりであり、また次の別の願いが生まれる。その瞬間、前の願いは過去のものとなり、そこに捨て置かれるというのです。
 一方、永遠の願いには、文字どおり終わりがありません。叶うことのない願いなど意味がないように思えますが、逆に言うと、これは叶う叶わないを超越しているということです。

 願いは当然、叶えることが目的にあるのですから、そこに向かって進んでゆくことになりますが、その願いが一旦成就されると、その歩みはそこで止まってしまいます。目的地を設定している以上は、目的地に到達してしまうと、当然、その旅路はそこで終わりとなります。
 願いがあったということは、もともとそこには何かしらの理由や思いというものがあったはずです。しかし、目的地に到達することしか意識しないようになると、目的地に到達した瞬間、その出発点や道中にあったものは、どうしても忘れ去られてしまいます。

 無心の願いとは、それを嫌っているのです。ゆえに禅では目的地を設定しません。目的地に到達することよりも、その歩みそのものが重要なのであって、且つ願いとその道程は不可分であるというのです。山登りをして頂上に到達したとしても、その道中がなかったことにはなりませんし、帰りの下山がないことにはなりません。
 無心の願いは、たとえ願いが成就してもその歩みを止めることはありません。成就してなお、その願いは自分の中に生き続けます。願いの叶う叶わないを超越するとは、その成就に固執してしまい、人生の本質を見失ってしまうことを忌避することを意味しています。これを大拙は「成就することのない永遠の願い」と言うのです。

 私たちの人生を鑑みてみると、子供から大人になる過程で、高校受験や大学受験を目標に勉強することもあるでしょう。では、晴れて受験に合格して入学できたらそれで終わりかというと、もちろん違います。入学のあとの卒業や就職が最終目標かというと、これももちろん違います。
 人生とは、終わりのない道のりです。限定的な目的や低い目標は自分の限界を決めてしまいます。自分の限界を決めるとそこで成長は止まってしまいます。

 大拙は続けます。

どうしても手の届かぬところのあるものが祈りなのです。(中略)いくらやっても駄目だから、よそうというような祈りでは、限りある世界でこそ意味あるかもしれぬが、駄目なものをくり返しくり返しやる心、その心は実に、弥陀の本願の世界に生きているものでないとわからぬ。

(鈴木大拙『無心ということ』)

 ここでは、阿弥陀如来の本願になぞらえて、その祈りの世界を説明しています。祈りの世界とは、他でもない私たちが住むこの世界のことです。永遠の願いを持つことができたのなら、この世界はそのままで極楽浄土となるのです。この極楽浄土とは人の生き方そのものを表しています。
 終わりのない願いこそが本当の願い。マグロやカツオは常に泳いでいないと、酸欠によって死んでしまいます。馬は常に走っていないと、血流が止まって死んでしまいます。私たちの人生における願いというものもそれと同じなのかもしれません。

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