人は生まれたから死ぬ
(出典:書き下ろし)
毎年2月15日は、お釈迦さまがお亡くなりになられた日、涅槃会です。お釈迦さまはお悟りを経てから約45年伝道の旅を続けられました。
その旅の途中で、鍛冶屋の息子チュンダからの接待を受け、その料理で食中毒(一説によるとキノコ料理)をおこして亡くなります。
チュンダはお釈迦さまの教えを一生懸命学んでいた信者でした。自分が良かれと思ってお出しした料理で、お釈迦さまが体調を崩されたのはあきらかです。お釈迦さまはチュンダの出された料理を一口食べ、「これは危ない、これは食べないほうがいいのではないか」と思われたでしょう。自分だけいただき、弟子たちには他の物を食べさせるように命じます。お釈迦さまは、料理を吐き出したりはしませんでした。心のこもった供養を粗末に扱うことはできなかったのでしょう。
そして、お釈迦さまの容態は急変します。おそらく他の弟子たちもチュンダを白眼視したことでしょう。責任を感じて泣き出すチュンダをお釈迦さまは諭しました。
「チュンダよ。何も嘆くことはない。私は生まれたから死ぬのである。あなたの供養の食事は、私の死の縁である。私の死の因は、私が生まれたことだ。人間生まれたものは必ず死ぬ。これが因縁の法だ。あなたの食事をいただかなくても、私は他の縁で死ぬ。だから、あなたに責任はないのだ」
いわゆる「死因」と「死の縁」は異なる、とお釈迦さまは語っています。さらにこうもおっしゃいます。
「私が生涯いただいた様々なご供養の中でも、お悟りを開くときにいただいたスジャータの乳粥と、そして最後にあなたからいただいた食事、この2つの供養は格別の意味があるのだ。決して自分を責めるでない」
自分が死ぬという契機を、あなたが私に与えてくれた、それは縁であるのです。お釈迦さまは、チュンダの供養を讃えています。お悟りを開く前にいただいた乳粥の供養とまさしく等しい、すばらしい功徳があると伝え、周りの弟子たちに対しても、決してチュンダを責めることがないようにと温かい言葉で慰められております。
人が死ぬのは何故か。それは「生まれたから」なのです。何かが縁(きっかけ)となって、必ず死ぬのです。事故や病気は、死の縁に過ぎません。良いことをしたから良い死に方をする、悪いことをしたから悪い死に方をする、というものではないのです。このお話は、因果応報という言葉を信じる人には不満かもしれません。しかし、因も縁も無数で、複雑に入り組んでいるため計りしれません。分からないのが真実です。私たち人間が推し量れない現象を不条理(道理に合わない)と呼ぶのでしょう。
人は生まれたから死ぬ。ただそれだけです。この絶対的事実を見つめたとき、改めて生の意味が見えてきます。であればこそ、このいただいた命をどう生きるのかと考えさせられます。お釈迦さまの涅槃会にあたり、改めて心にとどめておきたいお言葉です。