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有難き説教

(出典:書き下ろし)

 myo_2212b_link.jpg師走を迎えると、修行道場で老師から延々と説教を受けたことが思い出されます。
 それは道場に入門したての頃、「お前さんは釈尊が成道なされた時に何と言われたか知っとるか」と問われ、「いえ、存じません」と答えると、「何、知らん。お前さん、宗門の大学を卒業したんじゃなかとか。それでこの言葉も知らんと。何ば四年間勉強してきたとか。親の脛ばっかりかじっとたんじゃろ。あぁー、情けなか……」と叱られたのです。
 十二月八日、この日はお釈迦さまがお悟りを開かれたことを祝い、成道会という法要が執り行なわれます。
 お釈迦さまは二十九歳でご出家の後、前正覚山で心身ともに命にかかわる苦行を六年間なされたと伝わっています。しかし、苦行だけでは人間としての目覚めが得られないことにお気づきになられたお釈迦さまは、苦行の場を離れ尼連禅河で沐浴。身体を清められたのち、大河をのぞむ菩提樹の下で坐をお組みになり、坐禅三昧の深い禅定に入っていかれました。
 時間の経過とともに深い禅定力をその身に宿らされたある朝のこと。お釈迦さまの眼に東の空に輝く明星が飛び込んで来たのをご縁として、人間としての目覚めを自覚なされたのでした。
 この時、声高々に『奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉くみな如来の智慧徳相を具有す。但、妄想執着あるが故に証徳せず』と、叫ばれたと伝わっています。
 実はこの言葉こそが、老師から問われた答えなのでした。
 花は紅、柳は緑と。鳥は空を飛び、魚は水中を泳いで各々の生を謳歌しているように、生きとし生けるものは、他と取り換えることのできない尊さで、唯一無二の自己のいのちを”今この時”と精一杯生きている。それなのに妄想執着に囚われた己の価値観や我儘な物差しでしか周りを計れない者ばかりと、釈尊は嘆かれています。

 私は道場で修行を始めて間もないころは、辞めたい、帰りたいと思いながら日々を過ごしていました。そこに転機が訪れたのは、自分に課せられた甘茶への水やり作業で、花が開花したのに気づいたときでした。
 花を見たとき、毎日の作業が実を結んだことの喜びと同時に、「こんなに痩せた土地で花なんか咲くもんか、いつか枯れる。無駄、無駄」という思い込みをしていた自分が恥ずかしくなりました。そしてまた、甘茶の花に「お前は何をしにここに来たのだ」と、問われているかのように感じたのです。
 老師は私の立ち振る舞いを一見されて、修行に身が入っていないことにお気づきになられたのでしょう。「お前さんは、今どこで何をしている、どう生きる」と、釈尊成道の言葉をもってお諭しされたのだと思っています。老師からの叱咤激励の有難きお説教でありました。

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