禅~手洗へば蚯蚓(みみず)鳴きやむ手水(ちょうず)鉢(ばち)~
(出典:書き下ろし)
臨済宗妙心寺派では開山国師の遺戒にある「請(こ)う其(そ)の本(もと)を務(つと)めよ」を宗旨に掲げます。
「其の本」とは、古来「禅とは心の名なり」といわれてきた「安らぐ心」のことです。
国際連合で提唱されるSDGsとは「持続可能な開発目標」です。この開発目標の先にあろう目的は、誰一人置き去りにしない幸せです。しかしその幸せは自分たちの都合に適う幸せではありません。自分たちの都合に適う幸せを追い続けることは、自然破壊や戦争勃発へと進展する危険性をはらんでいるからです。
釈尊は私たちの一生は、決して自分たちの都合通りにならないことを達観されました。そしてこの人生苦を克服するがための出家を決意されたのです。出家とは都合通りにならない苦しみを苦にしない「心の開発」に身を置くことです。そうして得た釈尊が願われた幸せとは、一時的な幸せではなく誰一人取り残さない持続可能な幸せの実現でした。
安らぐ心と換言される禅は「心の開発」によって成就します。そして開山国師の遺戒にある「其の本」とは開発された心のことです。この心のことが『金剛経』には「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」と記されています。ここにある「其(ご)心(しん)」こそが開山国師のいう「其の本」です。
「応(まさ)に住する所無くして其の心を生ず」。
心は片時も留まらず、いつもコロコロと変化してその居場所を定めない。居場所をひとつに定めない心は、どこでもいつでも働きます。
この「其心」が、昨日と何ら変わらない今日の景色にも、新たな歓びや驚きや感動を抱かせます。この「気づき」によって、禅という仏法の幸せが実現します。
耳を澄ませば「ジーッ」という謎の音が届いてきます。
「いったいあの音は何かしら」
と疑問を抱きながら床に就いた正岡子規は、秋の夜長に静寂さを覚えました。
手洗へば 蚯蚓鳴きやむ 手水鉢
「ジーッ」と耳に届いてくるのはミミズの鳴き聲でしょうか。この謎の音が耳について眠れない正岡子規は、その焦りからかため息まじりに布団から抜け出て、秋の月あかりに照らされた白い縁側を厠へと向かいました。用を済まして手水鉢で手を洗ったそのとたん、さっきまで「ジーッ」と耳に届いていた謎の音がたちまちに打ち消され、その代わりに手水鉢を流れる水の音が現実的に響きわたったのです。
深まる秋の夜長の静かさに、どこからか届く謎の音を夢心地で耳にしていた子規がいました。そして手水鉢に流した水音に、たちまちにして夢から現実に連れ戻された子規がいます。
手洗へば 蚯蚓鳴きやむ 手水鉢
と静から動へと難なく移ろい、そのどちらにも留まらず引きずらず、安堵へと誘う子規の「其の本」が伝わる句ではないでしょうか。