鈴木大拙の世界シリーズ〔10〕
(出典:書き下ろし)
今年の秋のお彼岸の棚経も無事に終える事ができました。秋のお彼岸と言えば彼岸花ですが、毎年この時期になるとお寺の墓地の道沿いにも彼岸花が沢山咲きます。お墓参りに来た子供たちが「きれい!」と言ったり「えー、血の色みたいで怖い!」と口々に言うのを微笑ましく見ておりました。誰に教わった訳でもないのにしっかりと咲き、いつの間にか散ってゆく様子を見て、自然というものに驚かされます。
禅の教えや文化を西欧に広めた、我々臨済宗の僧侶にとってもとても偉大な仏教学者である鈴木大拙居士は、この自然というものについて次の様に述べられました。
「人間の力で動かぬもの、人間の考えのままに働かぬもの、人間の智(ち)で測られぬものがあるとして、これを自然と名づけておこう。(中略)
こんな自然と名づくべきものが、人間以外にあって、人間性を帯びずに人間の心理を超越して、利害得失の考えも、善悪美醜の念もないということが、人間にとって、如何ばかり仕合(しあわせ)なことであるとも考えられぬでない。
ある宗教や哲学は実にこの「自然」観をもって人生を規制せんとしたのである。」
(鈴木大拙『鈴木大拙全集 第十九巻 文化と宗教 随筆 禅』より)
自然と言うものは我々人間の力の及ばないものです。さきの彼岸花の様に決まった季節が来れば満開に咲く花々も、我々が勝手に綺麗だとかそうでないとか言っているだけです。花自身「よし、綺麗に咲いてやろう」等と特別力んでいるわけではありません。正に自然体であります。美醜を追い求めたり、物事を役に立つ立たないと計らったりしません。ただひたすらに自然の中で自分の役割を全うしているのです。こうした生き様に、時として我々は魅了されるのです。
我々人間が生きる上で「苦しい」と感じるのは、「自分の思い通りにいかない」というところからくるものであり、それは裏を返せば「全ての事は自分の思い通りになる」と言う思い込みであります。「もっと上手くできたのに。」といった今更の後悔であったり、「なんであの人は分かってくれないんだろう。」という責任転嫁であったり。私自身も幼いときは勿論、僧侶になってからも沢山そうした経験があります。夜ふとした時に思い出しては恥ずかしくなるばかりです。
仕事にしても日々の生活にしても、日々工夫や努力をする事は大切です。しかし成功を追い求めたり、失敗したくないと他人に当たってしまうようではただただ苦しくなるばかりです。
周りの人の評価を求め気にし、特別なものや完璧なものばかりを追い求めるのではなく、自分の置かれた立場で自分のするべき事を一心にやっていく事が一番大切な自然な生き方ではないでしょうか。思い計らわずに生きるというお手本、自然というすがたこそ美しいという禅の教えが私たちのそばにあってくれるという事が何よりのしあわせであると大拙居士は教えて下さっています。