武士と禅
(出典:書き下ろし)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が好評です。実にリアルな鎌倉時代の実像を、三谷幸喜氏の脚本でおもしろく、かつ時々畏怖の念をもって観ています。
私にとって、源頼朝と言えば子供のころより教科書にも登場する、鎌倉幕府の創設者であり、歴史上の英雄というイメージでした。しかし、このシリアスなドラマを観ると、リアル頼朝は「鎌倉時代のプーチン」としか思えません。少なくとも、頼朝亡き後の二代執権北条義時、その子三代執権泰時までの鎌倉幕府草創期は、とても「武士と禅」は結びつきません。
下って、泰時の孫にあたる五代執権北条時頼が、実に禅に対する信心が深く、この方の代以降が「武士と禅」を語るにふさわしい関係性を築きます。具体的には、中国僧の蘭渓道隆を招いて純粋の禅寺・建長寺を創建します。さらに出家して禅の奥義を極め、悟りの印可状まで受けます。
その後、時頼の子の八代執権北条時宗が無学祖元を招いて円覚寺を創建。以後の戦国大名の武田信玄、上杉謙信、徳川家康、伊達政宗なども禅僧に師事しています。
ではなぜ禅は武士に支持されたのか。それは、禅は経典の文字ではなく実践を重視した教えだからです。自らの鍛錬・実践によって心を鍛える教えが、質実剛健で独立心が旺盛だった武士の気風に合っていたのです。しかも、武士は一旦戦に出れば、明日の命の保証もない。そんな境遇に禅の教え「いま、ここ、自分」に徹して生きることが腑に落ちたのです。
誰でも過去を振り返れば、一つや二つ後悔の念があります。さらに未来に目を向ければ、先行きに不安を感じます。ではどこに「安心(あんじん)」があるのかと言えば、「いま、ここ、自分」だけなのです。いま、ここの自分に徹して生きるのが、一番の安心なのです。「一生懸命」ではなく「一所懸命」、一つの所で懸命に生きること。禅の思想、実践と忍辱行(にんにくぎょう・じっと耐え忍ぶ修行)こそが、武士の追い求めた思想と合致したのです。
さて、先日植物関連の本を見ていましたら、夏になると、あっという間に根を張り成長して、寺の和尚を悩ませる「草」が、実は植物界では弱い存在であると書いてありました。あのコンクリートのすき間にも生息する雑草が弱い存在とは。
内容を要約しますと、本来草と言われるナズナやハコベラやタンポポは、日光が欲しいのです。しかし森林には自分より背の高い植物があり、日光の取り合いに負けた植物たちが、仕方がなく人間の切り開いた道や畑や家の周りに生息する場を求めたのです。そんな弱い草たちですが、実にねばり強い一面もあります。数十年経った家を壊して更地にすると、あっという間に草が生えます。あの草は風や鳥が運んできたものだけではないのです。その多くが数十年土の中でじっと耐え忍んでいた種が、雨と日の光を受けて一気に成長したのです。
その忍辱行とも言える草を見ると、いつも建長寺開山の蘭渓道隆禅師の次のエピソードを思い起こします。
開山禅師が鎌倉時代のモンゴル軍の日本侵攻、元寇を受けて、京の旧仏教勢力より「あれは元のスパイだ」と誹謗中傷を受け、甲州(山梨県)に流罪となります。その時、多くの弟子を前に「仏弟子は忍辱行を第一とする。他人の非難を受けても決して怒りの心を起こしてはならぬ。自ら怒れば、自他ともに悪業を深めるだけである」と語られ、泰然自若として甲州に赴かれました。禅師は中国より禅と言う教えを広めるために来られたのです。だから流罪になろうとも、その自己本来の面目は変わらず、流刑地の甲州で禅を広められました。そのおかげで、いまだに多くの建長寺派の寺が山梨県に残っています。
建長寺開山・蘭渓道隆禅師は「禅は実践と忍辱行」であることを、身をもって示されたのです。まさに、雑草のようなねばり強い精神で、種を蒔き、根を生やして、禅を日本の地に広げられたのです。そんなたくましい禅僧の生きざまを見せつけられた鎌倉武士が、心底「禅」に帰依したのも理解できます。
最後に一句を呈して、この法話の締めとします。
「生き場所が ここにもあった 屋根の草」