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鈴木大拙の世界シリーズ〔8〕

(出典:書き下ろし)

 ren_2208b_link.jpg仏教学者の鈴木大拙は次のように述べています。

無意味の意味に生きることが、いわゆる無心の境涯だと自分は言いたいのである。

(鈴木大拙『無心ということ』より)

 何とも虚しく思われるかもしれませんが、そうではありません。宋代の士大夫で禅の信奉者でもあった蘇東坡は次のような有名な句を遺しています。

紈素画かず意高き哉
若し丹青を著くれば二に堕し来る  
無一物中無尽蔵
花有り月有り楼臺有り

(蘇東坡『東披禅喜集』より)

 常に真っ白な心でいるからこそ、様々に美しい世界が無限にそこに現われる、と蘇東坡は言っているのです。そして、そこに描かれた景色でさえも忘れてしまうことが大切です。白地の画布に後付けされた色に、いつまでも執着してしまえば、「二に堕し来る」つまり、いつでもそこにあるはずの本当の美に気付けないというのです。
 余計な意味を持たせない、これが鈴木の言うところの「無意味の意味」ではないでしょうか。

 評論家の小林秀雄は宗教的偉人たちについて次のように述べています。

富とか権力とかいう外的証拠を信用しないという事なら、そんなに難しいことではないだろうが、知識も正義も、いや愛や平和さえ、外的証拠に支えられている限り、一切信用することができないという処まで行く事は何んと難しい業だろう。

(小林秀雄『信仰について』より)

 小林秀雄は、これを「自己放棄」と呼びました。自分を単なる記号と化してしまうものを捨てることです。
 肩書きや立場は、もちろん大切です。色々な評価が与えられ、初めて得られる安心もあるでしょう。信じる何かを拠り所にして、人は生きるものかもしれません。しかし、禅はそこに固執しないのです。

小林はこのようにも述べています。

西行が、虚空の如くなる心において、様々の風情を色どる、と言った処を、芭蕉は、虚に居て実をおこなう

(小林秀雄『私の人生観』より)

 無意味とは、ともすると虚しいだけと捉えられがちですが、この「虚」とは、実に大きく深いものなのです。むしろ、意味に囚われすぎて、かえって虚しくなることもあるでしょう。
 無意味の意味に生きてこそ、偉大なる先人たちのように豊かで味わい深い人生を送れるのではないでしょうか。

 鈴木大拙も小林秀雄も、「難しい業」としながらも、このように観る心や感じる心は、我々日本人は皆がそなえもっているはずである、と述べています。連綿と紡がれた文化の中で養われた我々は、それを知っているはずであるというのです。
 大切なことは、時折り立ち止まり見つめることです。

 お盆です。それぞれに立ち止まり立ち返り、自己を見つめる場所があることだと思います。この流行病の中、もしかすると今年も帰省は難しいかも知れませんが、心を遣り思いを遣ることはできます。
 思い、願い、祈り、それらは明確で実質的あるいは実際的な意味や何かを伴わず、ただただ虚しいだけのものではないことを、我々は知っているはずです。空間や時間、執着も矛盾も越えて、胸に去来するかけがえのない何かを感じることができるでしょう。

 何ものにも囚われない、自由な心が我々にはあります。禅ではそれを無心と言います。

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