鈴木大拙の世界シリーズ〔6〕
(出典:書き下ろし)
鈴木大拙は、『禅と日本文化』でも、「剣道」を取り上げていますが、剣と禅はどのように関係しているのでしょうか? 『新編 東洋的な見方』(岩波文庫)から引用します(57頁)。
剣を把って立ち合うというのは命のとりやりになるのだから、一刻も自分を忘れなどしたら、命丸出しになる話でなければならぬ。危険千万な心がけである。
この文で大拙がいう「自分を忘れ」というのは、「ボーっとする」という意味でしょう。例えば戦国時代の侍が、真剣をもって相手と立ち合う時、ボーっとしていたら、すぐに相手に切り殺されてしまいます。「ボーっとする」という意味での「自分を忘れる」は致命的ですが、では逆に、「自分を忘れてはいけない」というので、自分の体のことや持っている剣のことを考えていたら、どうなるでしょう?
ところが実際の上では、自分のことを考えていると、そこにそれだけの隙が出てくる。ちょっとの隙でも隙が出れば、そこに相手の剣を招くことになる。それで命を落とせば事実は自殺したのである。
相手と真剣をもって立ち合っている時に、何か考えごとをしたり、自分のことをアレコレ考えていたら、それが「隙」になり、やはり相手に切り殺されてしまいます。「自分のことを考えている」が自殺行為となってしまうわけです。
剣刀上の試合は電光石火で、「私」を容れる余地がない。ところが、命の取り合いという際どい間際に自分をどうして忘れうるか。ここに人間心理の極微が窺われるのである。事実「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのである。ここを悟るのが剣の極意である。剣の妙である。
「ボーっとする」という意味で「私」を忘れても殺されてしまう。「アレコレ考える」という「私」があっても殺されてしまう。「真剣」をもって立ち合うような場では、このような大問題があるのです。
ではどうしたらよいのでしょうか? どうしたら、「隙」となってしまうような「私」のあり方を、忘れうるのでしょうか?
この大問題に、今、現に真剣に取り組むところに、「人間心理の極微」があると、大拙は述べています。
「真剣に相手と立ち合う」、このような心の姿勢で立ち向かうところに、「ボーっとしている私」「アレコレ考えている私」の次元でない、一つの真実の世界があり、ここを悟るのが、「剣の極意(妙)」です。
人間万事の上について、悉くこういえるのである。禅の修行は、その最も根源的なところに、この機を悟らせようとするのである。豈にただ剣のみならんやである。
現代の生活では、普通に生きている人が、文字通りの意味の「真剣(木刀でなく本物の剣)」を持つ機会はないでしょう。ですが、通常の意味での「真剣(いい加減や遊び半分でなく真面目な姿勢)」にならなければならない機会は、もちろん多いわけです。「剣道」をするという一つの道だけでなく、人間が行なうすべての行動において、ここに述べたような意味での「真剣」は極めて大事なわけです。
「禅の修行」というのは、「その最も根源的なところ」で、ここにある端的な真実を深く悟るべく、真剣にこの問題に立ち合うものだと思います。
私は、「坐禅」を長年、探究してきました。多くの場合、「ただ緊張する」か、「(心も体も)だらけてしまう」のどちらかに陥ってしまいがちです。ですが、「真剣に立ち合う」という心の姿勢が活溌溌に満ちている時には、足の先まで血が十分に通り、関節もゆがまず、立って真剣を構えている時と全く同じ自在なあり方で坐ることができることにようやく気づきました。
私は、剣道を習ったことがありませんし、もちろんできませんが、「真剣に構える姿勢」をとることはできます。これは誰でもできることです。
同様に、「緊張」「だらける」の間でまごまごしている「私」を脱して、真剣に立ち合う道は、誰にでも歩めると思いますので、この道を人と共に歩んでいけたらと願っています。