夏涼の法 ~不即不離~
(出典:書き下ろし)
雲の峰が一層高くなり、真っ青な空から照りつける太陽。連日の猛暑日。そうなると、涼を感じるものが欲しくなります。
うちわ、金魚鉢、打ち水、早朝の木陰、スイカ、かき氷、そうめん、冷やし中華、プールや海水浴、麦茶片手に浴衣で夕涼み、花火とビール、風鈴に朝顔など……夏休みは、電気代が気になりながらも、クーラーの前から動かないという方もあるでしょうか。
フランス文学者の杉本秀太郎(1931~2015)は、「夏涼の法」という随筆で、「涼しそうだということは即ち涼しいということだ」と述べ、くずのお菓子やハモの落としを紹介し、要は「ながめて涼しいと思う」ところがいいのだそうです。京町家の「しつらえ替え」も同様で、涼しいという「見立て」がなければ効用はないといいます。
いわば、物理的に冷やすのではなく心持ちを涼しくすることで暑気を払うのです。さて、次の句も涼を感じる「見立て」の効果ありやなしや。
涼しさや 鐘を離るゝ 鐘の声
(安政六年 1859)『蕪村書簡集』
江戸時代の俳人、与謝蕪村(1716~1784)六十二歳頃の作です。
蕪村自身が鐘の声とともに上空へスーッと上がっていくような印象で、音に注目しながらも視覚的で、現代のドローン撮影画像のようです。
狂言に「鐘の音」という演目があり、このような一説が出てきます。
(前略)あれに大きな寺が有る。 さらば此鐘の音を聞かう。
えいえいえい。 こんもんもんもんも。さてもさても冴へた
よい音かな。 さりながら念の為じゃ。も一度聞いてみよう。
えいえいえい。 こんもんもんもん もんもんもんもんも。
響きの揺らぎが、よく表現されています。一旦発した音声は、時間経過とともに減衰し、元には戻りません。まさに諸行無常の響きです。
さて、鐘と音声はこれ同か、これ別か。鐘楼(本体)は物質であり、鐘の音声(作用・働き)に固定した形はないので同じでないと言えますが、鐘なしでは音は出ず、撞木で打った瞬間、鐘と音声は、同時に共鳴していますから、別だとも言い難いですね。
禅に「不即不離」(円覚経)という言葉があります。つかず離れずの関係性を保つことです。鐘と音声の関係性と同様に、暑さと涼しさの関係性も不即不離です。暑さを除かずとも涼しさを得る術を、蕪村もそして、私たちも既に持ち合わせているのです。
ちなみに、件の狂言は、息子のために黄金の太刀を作るため、主人に「金の値」を聞きに鎌倉へ遣わされた太郎冠者が、「鐘の音」と早合点し、寺々を回って聞いた鐘の音を報告し叱られる、というあらすじ。
「金の値」の変動に惑わされず、真の涼しさを味わう夏にしたいです。