鈴木大拙の世界シリーズ〔5〕
(出典:書き下ろし)
ご存じの通り、鈴木大拙には禅と日本文化を論じた文章が多くありますが、『仏教の象徴主義』と題された一文に、彼は芭蕉の「古池や」の句について極めてユニークな解釈を披露し、こんな風に述べています。
この俳句自身が関する限りでは、芭蕉によって目撃された現象のありのままな陳述の埒を越えてはをらぬ。一小助詞の「や」を除いて、この出来事の主観的様相と名づくべきものへの何の言及も無い。ところで、実はこの「や」が大切なのであって、これが据わってゐればこそ一句の全意が汲みとれる。これあるによって、この句は、蛙が古池に飛び込み、そのために水の音が生ずるといふ客観的叙景から蝉脱(せんだつ=古いしきたりや束縛から抜け出すこと)する。(中略)何故、芭蕉は「古池や」と叫んだか?この場合英語の感動詞「おお!」に相応するこの「や!」は、どのような意義をこの句の爾余に対してもつてゐるか?この助詞は、爾余の対象や出来事から古池だけを選び出し、特にそれを注目の的とする力を具えてゐる。だから「池」とさへ云えば、この句で特に述べられてゐる一聯の出来事だけにとどまらず、人間の実存世界を構成する無尽蔵の事物全体が、それとともに顕現するのである。
一個の切字をこれほど熱く論じた句評は他に類がなく、また切字を英語の感動詞に対照する斬新な指摘に、俳人からも高く評価されている見解です。大拙の主張を私なりに嚙み砕くなら、この「や」一字によって、芭蕉は眼の前の風景の単なる描写を越えている。この句の、古池と蛙とその運動と水音という、17音に切り取られた一瞬の光景と、その光景を体験する芭蕉とは、この「や」一字によって、ぴたりと一つになっている。しかも、この「や」一字によって、その瞬間、それらと同時にある世界と存在の一切が、芭蕉自身の生において、ぴたりと一体に生きられていることを表している。そして、句を読む我々の目の前に、その全てを出現させて、こちらをも一つに取り込んでいく。この切字「や」は、それ一音のみでそれだけの力を発揮している。
さて、時代は下って、博多の仙厓和尚にこんなパロディーが知られています。
古池や芭蕉飛びこむ水の音
池あらば飛んで芭蕉に聞かせたい
古池やなんやらぽんと飛ひこんた
こうして並べてみると馬鹿々々しいだけに思われるかもしれません。確かに滑稽は滑稽、けれども、どうもこれらのパロディーは滑稽だけでは済まないようにも感じます。大拙居士が絶賛する芭蕉の句。しかし、百年後の仙厓さんの時代には、かなり有名な句になっていたのではないでしょうか? ましてや今のように知らぬ者の無いほど人口に膾炙(かいしゃ)してみれば、多くの人にとってこの句は、教科書的な、古臭い風景詩としか理解されない惧れがあります。それこそ句の字面だけが追われ、精彩を欠いた絵面として、芭蕉が活写する全宇宙的躍動が見損なわれ、凋んでしまうのです。例えば「古池や何やらポンと飛び込んだ」というパロディーは、そんな無味乾燥な読みに対する強烈な皮肉とも取れなくはない。そこで、自由奔放なパロディーの遊びを通して、仙厓さんはこれでもかこれでもかと、古池の句における芭蕉の真骨頂を我々に際立たせているようにも感じます。
この句の世界の中で、芭蕉は蛙と一体、蛙は芭蕉と一体となっている。それどころか彼らを取り巻く庭と、空と、光や風や雲と、ぴたりと一つになって見せています。そのことを際立たせながら、仙厓さんは更に、こちらに呼び掛けているようにも思います。芭蕉飛び込む水の音、飛んで芭蕉に聞かせたい、と更に「もじる」ことで、ほら、お前もこの句の風景と、命漲るこの世界と、この宇宙のすべてと一つになって見せてみろ。ほれ、お前も、飛びこんでみろ、という風に。
「有季定型」という俳句の伝統的な形も、切字の独特な機能も、禅の不立文字に似た、逆説的な言語戦略なのかもしれません。17音の短詩形は、その制約だけでも、言葉の概念性・物語性を薄めずにはおきません。またその短さ故にこそ、瞬間を把える詩的なスピード感を実現するようにも感じます。そして俳句の文体はまた、禅の修行にも似て、丁寧かつ迅速な、集中力と爽快感のある、一体感を目指すようにも感じます。そうして季節や身近な風物の一つ一つと親しく語り合い、響き合うようにして、句を作る人はその都度その都度、いっそう精彩を放つ世界の中へ出かけていくように思えます。
さりげない日常の中でこそ、この上なく新鮮で、清々しい、自然と自由の境地に遊ぶ。字面の古池を飛び出してこそ、大自然の蛙に甦って、渾身の生の躍動を味わうことができる。芭蕉が、仙厓が、大拙が、そう教えてくれていると、そこはかとなく感じます。