鈴木大拙の世界シリーズ〔3〕
(出典:書き下ろし)
瓦礫の前で慟哭する幼児の写真を見ました。
思い詰めた心のまま、これから先を生きていくことがなければと祈ってしまいました。
人は、思い詰めると分別が凝り固まり、他者を受け入れられなくなり、苦しみとなって還ってきます。分別の凝り固まった苦を乗り超える提言が、仏教にはあります。
鎌倉の円覚寺で禅を体得された仏教学者の鈴木大拙居士は言います。
「日常経験の上で無分別が分別の中に滲透していることを会得させようとするのです。(中略)仏教は―宗教は―真裸(まっぱだか)になることを要求します。」
(鈴木大拙著『仏教の大意』法蔵館 第一講「大智」より)
分別というものの正体は、「分別の世界は我の一念で支配せられて」いるものだと言います。「分別」は、分けて比べて選ぶという意識して思うこと全般を指します。
「真裸になる」とは、「我」が自他の差別をしようとしている社会的地位とか財産とか価値観とかの分別を無分別によって脱ぎ捨てようということです。
私の故郷の栃木県(昔の下野の国)の中央部を流れる川に思川(オモイガワ)があります。その川の名前にまつわる民話があります。
お三輪という器量よしの娘とその婿、市太郎の話が伝えられています。川の近くの大きな農家に、お三輪と市太郎という仲のよかった夫婦が住んでおりました。お三輪は、両親の死をきっかけに、病を得て寝込んでしまいました。婿の市太郎は、お三輪の回復を願い、川向こうの神社にお百度参りを始めました。
お三輪が、毎晩寝床を離れていなくなる市太郎のことを「どこかにいい女ができたのでは」と怪しんで、ある晩市太郎の後を追いかけます。そして、川のほとりまで追いかけてきました。
市太郎が川を渡ろうとする時、お三輪は思い余って、「女憎し、市太郎憎し」と、川に入水してしまいました。そして再び川に浮かび上がったのは、お三輪が化身した大蛇(オロチ)です。大蛇は、市太郎をひと吞みにしてしまいました。その後もお三輪大蛇は近くの池に住みつき、近くを通る娘を次々に引きずり込みました。
その頃近くにいたという高僧に拝んでもらい供養したところ、漸く姿をみせなくなったそうです。人々は両人とも内緒で事を進めてその思いがすれ違ってとんでもないことが起きたのだと噂し合いました。それから「思いの川」「思川」と呼ばれるようになったと伝えられています。
市太郎は、婿ですから、お三輪と一緒に家を盛り立てなければ居場所をなくすかもしれないという分別が凝り固まってしまったのでしょうか。
お三輪は、寝込みがちになり市太郎の妻として十分な働きができなくなり、自分の居場所がなくなるかもしれないという分別が凝り固まり、心の多くを占めてしまったための苦しみだったのでしょうか。お互いに分別が凝り固まり起きた悲劇です。
分別に凝り固まってしまった心が、「真裸になる」とは、どういうことでしょうか。鈴木大拙居士は、「柔らかな心で、まず受け入れなさい」と言います。
「柔らかいというのはいわゆる受動性の型、宗教の極致というてもいいので、柔らかでなければ物を入れようとしてもはいらぬ。何か固いものをその中に蔵していると[われが]といって頑張る。そんなに頑張ってしまうと、内外から来るものに対して、すぐ反発してしまう。なるべく自分がなくならなくてはいけない。(中略)柔軟なものになると、はいったものをすっと包んでしまう。」
(鈴木大拙著『無心ということ』角川ソフィア文庫「無心の境地」より)
「真裸になること」は、宗教の要求することでした。そして、柔らかく受け入れる心は、宗教の極致と言います。「真裸になる」とは、「我」をなるべく抑えた柔らかな心で分別を包み込んでいくことになるのでしょうか。
日常の経験で、何か心にひっかかるものがあった時、その凝り固まった心を柔らかくして、思い詰めた心を解していければと思います。