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坐禅のすすめ

(出典:書き下ろし)

 ren_2201a_link.jpg明けましておめでとうございます。早いものでコロナ禍を経験して二度目のお正月となりました。一年前と比べると世の中は少し日常を取り戻しつつあるような気がして嬉しく思いますが、まだまだ油断はできない状況が続いています。そのような状況ではありますが、令和四年も皆様と一緒に禅の教えについて考えていければと思います。

 コロナ禍を迎えてからは開催できておりませんが、私のお寺では毎年十一月に檀家さんを連れて大本山東福寺への集団参拝を行なっております。前回の集団参拝の折に原田融道管長猊下から頂戴したお話の中で「皆様もぜひ一日三分でも坐禅をしてみてください」としきりに言われていて、とても印象に残っています。

 臨済宗は坐禅を主たる修行の一つと重視する宗派です。東福寺を開かれた聖一国師(しょういちこくし)の言葉に次のようなものがあります。

未だ悟りに到らぬものでも、一時坐禅すれば一時の仏である。一日坐禅すれば一日の仏である。一生坐禅すれば一生の仏である。このように信じることが悟りへの道であり信じ切れることそれ自体が素晴らしい素質なのである。

(『聖一国師仮名法語』より)

 私たちは普段の行動の基準として「損得」をよく用います。例えば元々一時間かかる仕事を三十分でこなせれば得、二時間かかるなら損と判断して得な方へ、得な方へと行動を選択します。これは非常に合理的な考え方ですが、世の中にはこういった損得の尺度だけでは解決しない問題も数多く存在します。坐禅の本質はこうした判断の基準からあえて離れていくことにあります。
 目先の損や得ばかり気になっている時は往々にして自分のことばかり考えているものです。普段生活しているといろいろなことがありますが、例え三分や五分であってもいわゆる自己中心的な視点から一度離れて、目の前の「ただ坐る」に徹することには何にも代えがたい価値があるということです。

 時々ですが私のお寺で開催している坐禅会に中学生や高校生の若い方が来てくださります。初めての坐禅を終えてみての感想を聞くと、大半が「疲れた」、「長かった」、「脚が痛かった」で、時々「スッキリした」、「面白かった」という感想を頂くこともあり、いずれも微笑ましく聞かせてもらっています。どのような感想であっても慣れないことながら自分なりに一所懸命に坐禅に徹していることは伝わってくるので、やはりこちらとしても身の引き締まる思いがします。「短い時間ではありましたが、今日実際に坐禅してみて感じたことを大切にしてください」とお伝えすると、快活な顔で「はい!」と返事が返ってきます。学生さんたちはまた普段の生活へと帰って行くわけですが、その生活の中で坐禅の経験が役に立つことがあれば何よりも嬉しく思いますし、一心に坐禅に取り組む姿にこちらが学ばせてもらうこともたくさんありました。

 「一年の計は元旦にあり」と言いますように、正月という節目は何か新しいことを始めるのにとても良い時節です。初めは形にこだわらず、姿勢を正して椅子に腰掛けるだけでも良いかと思います。時間を決めてリラックスして、静かに坐ってみてください。坐る中でそれぞれ色々な気づきがあるかと思います。思わぬことが心に浮かぶ、などという新鮮な体験もあるかも知れません。こういった「体験」には本を読んだり人から聞いたりする知識には代えられない価値があります。これが、禅は体験の宗教とも言われる理由なのだと思います。是非、私たちの生活の中にも禅の教えを取り入れてまいりましょう。
 令和四年が皆様にとってよりよい一年となるよう祈念申し上げます。

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