七つの穴
(出典:書き下ろし)
「なぁ、今日の結婚式、どんな花嫁さんやった?」
昨年より続くコロナ禍で延期になっていた結婚式に出席した祖父に尋ねた時の話です。この質問に祖父は、「せやな、眼が二つ、耳も二つ、鼻が真ん中にあって、その下に口があった」と。それを聞くなり「なんやそれ!?」と言いながら家族全員で大笑いしました。
これを聞いてふと『荘子』「応帝王篇・渾沌」の話を思い出しました。その話とは、「南と北に儵(しゅく)と忽(こつ)という極めて人間的な二人の神と、その両者の間に孤高の存在である渾沌(こんとん)という三人の神がいた。ある時、南北の儵と忽がその間に住んでいる渾沌の地で会った。すると、そこに居合わせた渾沌は、この二人を大変もてなし、これに喜んだ儵と忽は渾沌にお礼をすることにした。そこで二人は、『人はみな、眼に二つ、耳に二つ、鼻に二つ、口に一つ、合計七つの穴を持っているが、渾沌はこれを持っていない。だからこの穴を開けてやろう』と決めた。こうして、儵と忽は渾沌に一日に一穴ずつ空けていったが、七日目の最後の一つを開けた時、渾沌は死んでしまった」という何とも切ないお話です。
仏教では、眼耳鼻舌、それに付随して身、見聞覚知の感覚器官が備わっているからこそ起こる意、これら六つ(眼耳鼻舌身意)を合わせて「六根」といいます。先ほどの話にこれを当てはめると、「眼耳鼻舌」を持たない渾沌にこれらを与えたら、渾沌は死んでしまったということです。つまり、「眼耳鼻舌を持っていないものが急に眼耳鼻舌を持つと、生きるに耐えられない程の苦しみや悲しみを背負わなければならない」とも言えます。よって、生まれながらに六根を持っている我々人間は、最初から生きるに耐えられないほどの苦しみや悲しみの元を背負っているということになります。
しかし、我々は渾沌のようにそれらがあるために死んだりはしません。生まれたその瞬間から何とかその六根を使いこなし、悲しみや苦しみを背負いながらも生きているのです。ですから、我々は無意識のうちに「死ぬほどの覚悟」で六根をもって生まれてきているとも考えられます。
では、六根から得られる様々な苦しみとはいったい何なのでしょうか。それは「憎い・可愛い・惜しい・欲しい」といった人として決して無くすことができない感情です。私はこれが「人情」なのだと思っています。しかし、それは苦しみだけではなく、安楽もあるはずです。ですから、それら全てが人情なのであり、それがあるから我々の人生に彩りを添えてくれるのです。
この物語では、儵と忽の二人によって「眼耳鼻舌」を付された渾沌は最後に死んでしまいます。しかし、私は「本当は死んではいない」と思っています。禅語に「大死一番絶後に甦る」とあるように「徹底的に死に切り、その後しっかりと甦った」のだと思います。つまり、六根を得たことで人の心の苦しみを知り一度は絶望し死に切った。しかし、人の苦しみを知ることで他人を思いやる心、すなわち慈悲心も生まれたのです。そしてその時、自ずと心の底から「全ての人々が健やかで幸せでありますように」という大慈大悲の願いが湧き上がり、絶後に甦ったのだと思います。これにはここまでの物語は書かれていませんが、仏教を信じ出家している者として、渾沌がそうあってほしいという私の切なる願いでもあります。
コロナ禍でなかなか結婚式が挙げられなかったお二人様はもとより、これを読んで頂いている皆様もこれまで色々と大変だったことでしょう。そして、これからも我々に六根がある以上さらに色々なことがあるでしょう。しかし、自分の幸せがみんなの幸せであるよう願い信じながら、六根全てを使い尽してより幸せだと思える人生を送って頂くことを祈念してやみません。
12月の寒さ深まる中ですが、お互いを想いやる温かい心で、さらなる良いお年をお迎え頂ければ有難く思います。