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四十二章経の教えシリーズ〔20〕

(出典:書き下ろし)

「修行とは忍(にん)の一字」

 ren_2109a_link.jpgこれは、私が修行中に先輩の修行僧から教えて頂いた言葉です。この言葉を教えて頂いた私は、「とにかく修行は我慢だ、我慢するしかない」と思い込み、いつしか私の中で「忍の一字」は消え去り「修行とは我慢」という言葉でいっぱいになり、やがて自らを苦しめることになってしまいました。
 お釈迦様は『四十二章経』というお経の中で、修行者に対して次のような教えを示されています。

最もすぐれている力とは何であるか。忍辱(にんにく)が最もすぐれた力である。耐え忍ぶものは相手を怨む心がなく、必ず相手に尊敬されることになる。

(『四十二章経』第十二章より)

 お釈迦様は、私たちが心穏やかに幸せに生きていくために最も大切な力とは「忍辱」であるとお示し下さっています。
 忍辱とは、耐え忍ぶことです。どのような侮辱や迫害を受けようとも耐え忍んで怒りや見返しの心をおこさず、逆に相手のことをあわれみの心を持ってみるのが本当の忍辱であると説かれ、これを実践すれば心穏やかに幸せに生きていくことができると教え示して下さっています。

 現代において私たちは、耐え忍ぶことを「我慢」という言葉で表現し、日本人の美徳の一つとしても用いられています。しかし、もともとこの「我慢」という言葉は仏教でできた言葉であり、仏教語としては、「自分に執着する慢心」のことで「自分のことだけを考え、自分のことだけを基準にして行動し、一方では他人をさげすむことにもなる」という私たちが日常で使う意味とは、逆の意味を持っています。
 では、冒頭の私の思い込みについて考えてみます。先輩の修行僧から、修行に対する心構えとして「忍(耐え忍ぶこと)」と教わったはずが、私は「我慢」と受け取りました。私は「自分さえ耐えれば良いのだ」と考え、自分にとって苦しい事や辛い事を自分一人で抱え込んでしまいました。そしていつしか「私はこんなに辛い事や苦しい事に耐えているのに、なぜ認められないのか」という疑問が生まれした。やがて「認められないのは私が悪いのではなく、それを見ていない相手が悪いのだ」という思いでいっぱいになり、その結果周りの方々に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。当時の私は苦しみでいっぱいでした。しかしこの苦しみは自らが作り出したもの、つまり自分のことしか考えず視野が極端に狭くなっていたために生まれた苦しみでした。私は耐え忍ぶ方向性を間違っていたのです。

 お釈迦様は「そうではない」とお示し下さっています。つまり、耐え忍ぶとは「独りよがりの行ないではない」という事で、そこに着目しなければならないのです。耐え忍ぶことはとても苦しい事です。しかし、苦しいからと言って、殊更に感情を表に出し過ぎて周りの方を困らせたり、また私のように自らの内に内にと感情を潜り込ませて卑屈になり周りの方を不安にさせてもいけません。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちの周りには、多くの方が私たちを見守って下さっています。その見守って下さる方が少しでも笑顔になって頂けるような生き方、それがお釈迦様が教え示して下さっている「忍辱」の力を持った生き方なのです。

 今、コロナ禍によって様々な「我慢」が強いられています。我慢と聞くと、自分一人だけが耐え忍ばなければならない孤独感に苛まれてしまいます。しかし「忍辱」は違います。忍辱は、お互いの心の結びつき、いわば連帯感によって耐え忍ぶことができる大きな力を持ったお釈迦さまの教えです。私たち一人一人の「忍」が目には見えないけれども、きっと誰かの笑顔が生まれる力になっていると信じ、「忍」の一字を大切にしてお互いにこの状況を耐え忍んでまいりましょう。

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