珠光と禅のこころ
(出典:書き下ろし)
珠光(じゅこう又はしゅこう/1423~1502)は室町時代中期の茶人であり禅僧です。一般的には村田珠光という名前で知られているかと思います。茶道を大成した人物としては千利休が有名ですが、珠光はその原点とも言える侘び茶の創始者とされ、茶道の歴史において「茶祖」と位置づけられる人物です。いわゆる茶の湯の心と禅の教えは相い通ずるものであるとする茶禅一味のこころを説いたとされます。
珠光の残した教えでよく知られているものに「心の文」というものがあります。これは、珠光の弟子の古市播磨(ふるいちはりま)にあてた文章の冒頭の一節であると言われています。その冒頭の部分が次のようになります。
此道、第一わろ(悪)き事は、心のがまむ(我慢)がしやう(我執)也。こふ(功)者をばそね(嫉)み、初心の者をば見下す事、一段勿体無き事共也。
(古市播磨法師あて「心の文」より)
(訳)
茶の湯の道において、一番避けるべき事は心の我慢我執である。上級者に嫉妬したり、初心者を見下したりすることはよりいっそう勿体ない事である。
我慢も我執も仏教用語です。我慢という言葉は一般的に用いられる「耐え忍ぶ」という意味ではなく、まさしく「我が慢心」、つまり、自分自身の中にある思い上がり、うぬぼれの心を意味します。我執も自分自身の中にある執着心のことですから、まず第一に自分自身の心を律することの重要性を説いたとも言えます。茶の湯の道を説く教えでありながら、私たちの生き方そのものにも通じる教えです。
「弘法筆を選ばず」ということわざがあります。「名人、達人と呼ばれる人はどんな道具でも見事に使いこなす事ができる」という意味ですが、下手なものが上手くいかないことを道具や材料のせいにすることを戒める意味合いもあるそうです。上手い字が書けない時に思わず筆や墨や紙のせいにしたくなることは良くありますが、実際に道具を良い物に変えたところで、たちどころに自分の字が上手くなることはありません。結局は自分自身の修練の結果がそこに現われているだけなのです。自分自身の実力不足を棚に上げていては成長することはできない。耳の痛い話なのかもしれません。
私が小さい頃から習っていた書道の先生は、絶対に生徒の書いた字をダメだと言うことはありませんでした。どんな字でもまず良く書けてるねと褒めるところから入り、その上でここをこうしてみればもっといい字になるんじゃないかなぁ、といったような具合で指導をされていました。
子供の書いた字だからと見くびることもなく、目の前の字に真摯に向き合う。その姿勢は「先生」という立場から「生徒」に教えるというよりは、どれだけ歳が離れていても、お互い共に書道を学ぶ生徒なのだ、というものであり、とても印象に残っています。書道にとどまらず、謙虚な姿勢で学ぶということの大切さを教えていただいたのだと懐かしく思い返されます。
心の師とはなれ、心を師とせざれ、と故人もいわれし也
(古市播磨法師あて「心の文」より)
という一文で「心の文」は締めくくられています。我慢、我執にとらわれた心を、師として勝手気ままに振る舞うのではなく、その至らぬ自らの心の師となれるように日々精進していくことが大切である、という教えです。茶の湯の世界にとどまらず、私たち一人一人に投げかけられた問題として考えて、自身のおこないを振り返っていく契機としてまいりましょう。