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丸呑みにする禅

(出典:書き下ろし)

 ren_2105b_link.jpg皆さんは、江戸時代の黄檗僧でありながら、煎茶の祖と仰がれる、高遊外売茶翁(こうゆうがいばいさおう)という方をご存知でしょうか。京都、東福寺や三十三間堂、聖護院などに簡易の茶店を開き、そこで禅や仏法を説いたといわれる方です。伊藤若冲、池大雅、田能村竹田をはじめとした当時の文化人たちに大いに影響を及ぼし、その様子は今年のNHK正月時代劇「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり」にて当時の重要人物として描かれていました。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

 市井にまじって茶を売り飲ませつつ、このうちに禅や仏法があると説いた売茶翁ですが、いくつかの漢詩を遺されていますので、今日はその一つをご紹介いたします。

頻喚喫茶効趙州  頻(しき)りに喫茶と喚(よ)んで趙州(じょうしゅう)に効(なら)う
千年滞貨没人求  千年の滞貨 人の求むる没(な)し
若能一口喫過去  若し能(よ)く一口に喫過し去らば
万劫渇心直下休  万劫の渇心 直下に休せん

(『売茶翁偈語』より)

中国の趙州和尚という方は、誰彼なしに「まあお茶でも一杯飲んで行けよ」と言われたらしく、私もそんな趙州和尚にまねて、毎日毎日やっている。しかし、皆にはなかなかこの真の味がわからないとみえて、本当の禅や仏法の教えが千年万年と山積みのありさま。もしこれを一口に飲めたら、それこそ、あなたの長年抱えている問題は、即時に解決するのに。

 「良薬口に苦し」という言葉がありますが、何か小難しそうな話、あるいは年上の先輩からのお言葉、耳に痛いことは倦厭(けんえん)しがちです。その中にこそ真価があるのに、避けて聞く耳を持たない。人間とは、今の自分にとって都合の良い言葉しか選ばないものですし、そのようなものだと思います。しかし、この漢詩は「良薬口に苦し」と言いたいだけでしょうか?

 漢詩に漢詩を重ねることは、非常に不恰好ではありますが、禅の祖師方のお言葉にはとても示唆的なものがありますので、紹介いたします。

一口吸盡西江水  一口に吸い尽くす西江の水
洛陽牡丹新吐蘂  洛陽の牡丹新たに蘂を吐く

(『法演禅師語録』より)

ある意味で世の中は常に対になってできています。天地、山川、男女、自他、大小、広狭。さらにそこへ、ことさらな好き嫌いや損得といった煩悩を持ち込んで生きているのが私たちです。この漢詩は、偏ることなくそれらを全て飲み込んでこそ、つまり、ことさらな余念や執われを離れてありのままを受け入れてこそ、真の価値が見い出されるものだ、と表現しています。ことさらに好き嫌いをしていたら、飲み込めません。売茶翁のこの漢詩も、ただの嘆き節ではなく、大切な「一口に喫過し去る」ことを説いているのです。

 今回の流行病の件は、一年経って収まるどころかますます混迷を極めているのが現状です。新聞テレビでは連日、国民を煽るような報道しかなされません。最大限の配慮や安全の確保を考えると、このようにならざるを得ないのはわかりますが、いまだに心の置き所がないと感じているのが私自身の正直なところです。
 少なからずの人たちが、私同様に不安や悔しさ、やり場の無さを感じていることでしょう。うちから沸き起こるこの思い、この事実は消し去ることはできません。それも含めて人間であり、自身の苦楽、喜怒哀楽もしっかり飲み込んでこそなのでしょう。厳然と不安や苦しさは、そこにあります。そこで肝要なことが、ことさらに執われ過ぎないこと。本来は淡々とした足元の生活しかないはずの私たちです。
 もちろん、恐怖や不安を覚えることは人間として当然のことだと思います。猜疑心も当然です。ただ、そこに執われ過ぎるあまりに、偏り過ぎるあまりに、日常が疎かになっていませんか。本来の足元へ立ち返れと禅の祖師方は厳しく諭されています。

 何もコロナに限った話ではありません。あるお檀家さまが、こうおっしゃっていました。
 「いやいや作った晩御飯を、育ち盛りの息子が美味しそうに食べているのを見て、反省しましたし有り難かったです」。
 「一口に喫過し去る」ことができない者が、「一口に喫過し去っ」た者を見て、「万劫の渇心を直下に休し」た瞬間です。

 高遊外売茶翁は、まさにそのようにして市井の人々に禅や仏教を説かれてきました。言葉や教養もそうですが、在り方そのものもきっと法だったのでしょう。
 なかなかさらりと「一口に喫過し去る」ことはできませんが、足元の生活を丁寧に、つぶさに見ていけば、きっとそんな瞬間にも気づけようかと思います。

たたえたる茶の色のみか一口に空のみどりも海のみどりも

(道歌)

このような心持ちになれますよう、コロナの終息と皆さま方の日々のご精進を祈念いたします。

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