四十二章経の教えシリーズ〔18〕
(出典:書き下ろし)
我々は、この地球、大自然の中に生まれ、生き、死んでいかなければなりません。この世は、”諸行無常”の人生の一場面にすぎません。諸行無常とは、この世の中で、永遠のもの、変わらないものは一瞬たりとも何一つないということです。
すべての現象は移りゆくからこそ、秋には葉を落としても、春には木の芽が芽吹いてくれます。赤ちゃんは育ち、人間は成長できるのです。諸行無常だからこそ、私たちはこうして生かされ生きていけるのです。
この一度だけの人生、二度と来ない一瞬を味わい、今の今をも無駄にできないのです。「死」をはっきりと見つめることによって、「生」をもっと慶ぶことができ、「いのち」を愛おしむのです。
『四十二章経』第三十七章に、こんな教えが説かれています。
ある時、釈尊は一人の修行者に、次のように質問された。
「人のいのちは、どれくらいの間あると思いますか」
「数日の間だろうと思います」
「あなたは、まだよくブッダの教えを究めていません」
また、釈尊は他の修行者に質問された。
「人のいのちは、どれくらいの間あると思いますか」
「食事をしている間くらいの時間だろうと思います」
「あなたは、まだよくブッダの教えを究めていません」
また釈尊は別の修行者に質問された。
「人のいのちは、どれくらいの間あると思いますか」
「ひと呼吸の間だと思います」
「そのとおりです。あなたはよくブッダの教えを究めているといえます」
(『四十二章経』第三十七章より)
人のいのちは「このひと呼吸の間にある」と言えるほどに、いのちの無常性を理解し、我が身に受け止めたなら、いま生かされてるいのちの尊さ、有り難さに気づくことになるのです。このひと呼吸の積み重ねが今日一日、今日一日が今年一年、今年一年が自分の一生、いのちを精一杯生きることになるのです。
だからこそ良い呼吸をしてください。呼吸を整えなければなりません。”眼は心の窓”とか申しますが、”呼吸・息は心を映す鏡”であります。
思い出してみて下さい。人間、生きて行く上で、大きなピンチに立たされた時、最大の試練に会ったときの呼吸は……、どうでしょう。それは、青息吐息。
敗北を味わった時の呼吸は……、溜め息です。
人と喧嘩をしたり、何かに腹を立てたりした時の呼吸を思い出してみてください。それは、鼻息荒く、肩で息をしています。
青息吐息も、溜め息も、激しく肩でする息も、みんな碌(ろく)でもない息、呼吸なのです。
では、良い呼吸とは……、それは坐禅の息遣いです。ゆったりとして、規則正しく、そしてより深い息。即ち臍下丹田(せいかたんでん)より出で、臍下丹田に入る息。これがどっしりとした腰の坐った生き方をしている人の息遣いなのです。
そして、「この世は、私が私になるところ、私が仏になるところ」とも言います。仏とは、人間性の完成、優れた人格者の確立、つまり覚者になる為に、東福寺のご開山聖一国師は、「一時坐禅すれば、一時の仏なり。一日坐禅すれば、一日の仏なり。一生坐禅すれば、一生の仏なり」と説いておられます。
たとえ短い坐禅でも、それを毎日継続することによって、「一生坐禅すれば、一生の仏なり」と、なっていくわけです。まさに、白隠禅師の言われる「この身すなわち仏なり」であります。
お互い怠ることなく、努めてまいりましょう。