心がとらわれること
(出典:書き下ろし)
みなさんKYという言葉をおぼえていますか。周りのことを全く気にせずに発言したり行動してしまうような人の事を、空気読めない(KY)と言ってたのですが、似た意味の無頓着という言葉があります。「あの人は無頓着な人だなぁ」と言うように、ものごとを気にかけないで平気なさまを表わします。
「頓着」は本来「貪着」と書いて「とんじゃく」と読み、「貪」は苦しみを生む毒の一つでむさぼりを意味します。「着」は心がとらわれてしまう事で、「貪着」(とんじゃく)とはむさぼり求めて物事に心がとらわれてしまう事です。そこから逃れることができた状態が「無貪着」(むとんじゃく)と言えると思います。「貪」とは本当にありがたくないもので、むさぼるということは卑しいことの代表のように思えます。
この臨済宗を開かれた 臨済禅師の言葉を記した『臨済録』という本に、「貪はあなた達の家に備え付けの家具のようなものであり、それを取り除くことはできないのだから、しっかりと取り組むことが大切だ」という意味の文章があります。
家に備え付けてある家具は取り外すことができません。今ある家具を無くすのではなく、迎え入れてそれを生かす工夫をする。「貪」(むさぼり)をうち消すのではなく、それを取り入れ利用するのです。捨てるのではなくうまく支配し、それを発想の変換によって良い結果につなげていくことが求められています。
みなさん一年前を思い出してください。需要が供給をはるかに超えてマスクが店頭から消え、果ては間違った情報に踊らされて買い占めが起き、トイレットペーパーさえ消えました。70年代のオイルショックで学んだはずなのに。
また、学校は休校になり会社は自宅での仕事となり、出掛けることもままならず様々な行事ごとや催し物・旅行や飲み会も自粛となり皆さんそれぞれが多大なるストレスを抱え込んだ一年でした。
しかし一年経って私たちは徐々に落ち着きを取り戻しています。三密を避けて人と人との距離を保ち、大人数での会話をしないことが当たり前になりました。日常的にマスクをつけるのにも慣れました。一人一人が注意を払いウィルスと共存していくことができつつあるのです。
今まであった常識にすがることなくつまらぬこだわりを捨て、思い込みを捨て、新しい生活様式を取り入れていく。むさぼり求めて物事に心がとらわれてしまう事を捨てるのではなく、自分の中で取り入れてうまく支配し良い結果につなげていくことは、すなわち「無貪着」であると思います。臨済禅師の言葉にあるように、貪を取り除くことはできないのですからこれからもしっかりと取り組んでまいりましょう。