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四十二章経の教えシリーズ〔16〕

(出典:書き下ろし)

ren_2103b_link.jpg 本年は丑年にあたります。皆様、牛という生き物にどんなイメージをお持ちでしょうか。おとなしく力持ちで、歩みは遅いものの重荷を背負って着実に前に進む、といったところでしょうか。十二支の由来で、「わしは歩くのが遅いから早くに出発しよう」と夜通し歩き、最後にネズミに出し抜かれて二着になる、というお話はご存じの方も多いでしょう。ともすれば他人に追い抜かれつつも、着実に前へ進んでゆく、それは私たちの人生にも通ずるところもあるかと思います。

 さて今回、「四十二章経の教えシリーズ」と題しまして、和尚様方が『四十二章経』の各章を取り上げて法話をお届けしておられますが、その第四十一章にも、牛が登場いたします。

次のように釈尊は説かれた。
 修行者たちがブッダへの道を修めることは、牛が重い荷物を背負って、泥沼の道を歩いていくようなものである。牛はどんなに疲れても、左右を顧(かえり)みることなく歩いていく。そうして、牛は泥沼の道から抜け出たところで、ほっとして息をつく。[その様子は、修行者が道を歩んでいく姿に似ている。]
 修行者が情欲におぼれるのは、牛が泥沼にはまった姿よりひどいものである。心をまっすぐにして、ブッダの教えを忘れなければ、もろもろの苦しみから逃れることができる。

 『四十二章経』の中でお釈迦様は、様々なたとえ話を用いて修行の道筋を説いておられます。この章では牛が修行者の例えとして描かれておりますが、まさしく上に述べた牛のイメージと重なります。また、牛が背負う重荷とは、「五蘊(ごうん)」つまり、私たちを取り巻くあらゆるもののことです。「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」、それらは全てが負担であり、ふるい落としても次々にのしかかって参ります。それをじっとこらえて前に進むとき、牛が泥道を抜け息をつくように、「五蘊皆空」つまり五蘊が空(くう)であったと気づくのです。空であったとは、存在しなかったという意味ではありません。それ自体ははじめから重荷ではなく、それを煩わしく思う心こそが重荷であったのです。

 福井県に、このような民話が伝わっております。大食らいで怠け者の、大きな大きな牛がおりました。牛は食べて寝てばかりおりましたが、たまたま通りかかった円海長者というお金持ちに拾われます。グースカ寝ていた牛が、なぜか長者に懐き、後をついて行きます。ところが長者のお屋敷に着いても食べて寝てばかり、家来衆に「こんな役立たず、長者はんは何で飼っておられるのじゃろ」と言われる始末。
 ところかわって京都では、三十三間堂の建立が始まります。しかし、棟木が大きすぎてどうしても運ぶことができません。都の陰陽師が占いをたてたところ、「越前の円海長者の牛に曳かせるべし」というお告げが下ります。命を受けた円海長者、動きたがらない牛をなだめ、どうにか都まで連れて参りました。
 「あんなぼんくら牛に棟木が運べるものか」。都の人々が噂する中、合図の太鼓が鳴り始めました。ドン、ドン! 「そーれ、曳けぇ!」――すると牛の眠そうな眼に光が宿り、すっくと立ち上がります。ドン、ドン! 太鼓の音に合わせ、牛は眼を力強く光らせ、前足を踏み出します。「おお!動いた!誰にも動かせなかった棟木が、牛どんに引かれて坂を上ってゆくぞ!」。ついに棟木は坂を上りきり、三十三間堂は無事に完成を迎えました。そして円海長者と牛はたんまり褒美をもらい、越前でのんびり暮らしましたとさ。

 いかがでしょうか。食っちゃ寝の生活がうらやましい……ではなくて、背負うものの意味を考え、時には労苦を厭わず重さに耐えることも必要です。大切な人を背負って火事から逃げる時、重いと愚痴をこぼす人はおりません。周りをよく見て、必要な重荷をしっかり背負って歩きましょう。皆様が今年一年、牛のごとく着実に進んで行かれますよう、ご祈念申し上げます。

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