わたりどり~家へ帰ろう~(帰家穏坐)
(出典:書き下ろし)
まもなく越冬のために飛来していた白鳥たちが北へ戻る時期になります。万全の環境とは言い難い近くの湖で毛繕いをしたり日向ぼっこをしたり、まるで我が家で寛いでいるかのように優雅に過ごす例年の風物詩も見納めです。今シーズンは特に胸に沁み入るものがある大自然の営みの一コマとなりました。
「帰家穏坐(きかおんざ)」―そんな渡り鳥たちの姿にこの言葉を思い出します。渡り鳥たちは、山の湖に行けばその湖で、平野の川に行けばその川で我が家のように寛いで過ごします。ところが、私たちも出先から我が家に戻れば大抵はホッと落ち着くものでが、居心地の良い場所にだけ留まることができないのが現実世界です。
この言葉は、時間や場所に振り回されることなく穏やかになれる私たちの心の力を指します。ある時ある場所では心地よくて、ある時ある場所では嫌になってしまうのではなく、常に平穏無事な心で周囲に身を投じられる心を大切にしなさいという意味が込められています。言い換えれば、帰るべき我が家は心の中に存在するということです。
武田家の庇護を受け栄えた恵林寺という名刹が山梨県にあります。優れた力量が認められ織田勢から一度は赦しを得た住職の快川国師でしたが、敵方の一部をかくまったことから焼き討ちにあった話は有名です。山門に追い詰められた国師と弟子達は燃えさかる炎に囲まれ最後の時を迎えようとしていました。
「この期に及んで仏道を歩むお前達の心境はいかがあるべきか。わかるやつはいるか」と、国師は嘆き叫ぶ弟子達に問いました。しかし、弟子達は逃げ場なく慌てふためくだけで、それどころではありません。国師は、「坐禅して自らを見つめることは、必ずしも整備された美しいお堂や庭が必要というわけではない。心の平安を真に実現できれば、自らの【アンダーライン】心に燃えさかる業火【ここまで】すらも仏道成就の鍵となる(安禅は必ずしも山水を須いず、心頭滅却せば火自ずから涼し)」と、弟子たちに示し終え、最後を迎えられたと伝わります。
コロナ禍により社会は大きく混乱しました。社会活動は停滞し地域の交流も途絶えてしまうありさまです。その上、人の人たる所以が、恐怖や焦りという自らの心の業火に燃えさかっているかのような報道も耳にします。しかし、この混乱を経験し、人は一人で生きているわけではない、繋がりの中に生きているのだということを痛感したという声も多く聞かれます。その当たり前の事に気がつく心こそ、帰るべき我が家であり大切にすべきものです。
当山も人が訪ねてこないというような日々が続き不安ばかりが募りました。しかし、住職の務めがなくなるわけではないことを思い出しました。業火が燃えさかる心では、当たり前なことを見失いがちです。しかも、そんな時ほど心の業火に気づくことはできません。鳥たちには、だからこそ常日頃から心を調えることが大切なのだと導かれたわけです。
外出自粛が叫ばれていますが、自らを見つめ返す時間として身を投じてみることも良いのかもしれません。それもまた帰家穏坐というものです。